”考える” とはなんでしょうか?
日常生活の中でずっと無心の人は恐らくいないでしょう。普段私たちは何かしら考えているはずです。
しかし改めて”考える”とは何かと問われると、これがなかなか上手く説明できません。
私はワナビらしく、普段から”どうやったら作家になれるのか?” という事ばかり考えています。いえ、考えていたつもりでした。
実際に今の生活を振り返ってみると、食事中は食事のことを考えていますし、仕事中は仕事のことを考えています。と、言ってみるとここで言う”考える” が何なのか、すでにわからなくなっています。言葉にできません。
ワナビのくせに”言葉にできない” はよろしくありません。非情にマズイです。
というわけで現在、『考えることについて考える本』を読んでいます。
本日の参考文献:野矢茂樹[著]、植田真[絵]2004『はじめて考えるときのように』PHP文庫
本書を初めて手に取ったときの印象は、「綺麗な本」であることと「軽い読み物」といったものでした。ぱらぱらとページをめくってみると、文字数が少なめであることと、ふんだんに使われた挿絵が相まって余白が目立ちます。「一冊の本」として外観は良いけれど、内容はどうなのだろう? と正直思いました。
しかし少し立ち読みしただけで、その印象は上塗りされました。「綺麗な本」であるのは間違いありませんが、「軽い読み物」などとんでもない。
本書の文体は独白でありつつ、読者に語りかけるような柔らかで読みやすい印象を受けるものです。しかし、読みやすいと評した上で、その内容は極めて深遠です。「考えることを考える」という哲学なテーマに沿って、”当たり前を当たり前という言葉で片付けない”という新たな思考法を授けてくれます。
私は当初、この本は軽く読み流すつもりでした(野矢先生、植田先生申し訳ありません)。しかし、まず流し読みしてみて日本語はわかるけど理解が及ばない。次に要所と思われる所を速度を落として読んでみるが、一度読んだだけではわからない。
というわけで現在ゆっくりと通読中です。私の頭ではおそらく何度も読み返さないと理解できないでしょう。(というよりこの本を”理解する” ことが著者の先生方の意図なのかすら判らない状態です。カオスですね)
左様なわけで本日は本書からひとつ、ワナビには必要と思われる『エウレカ』を得るための考え方をご紹介したいと思います。
『エウレカ』ってなに? アルキメデスのエピソード
エウレカという言葉をご存じの方もいるかもしれません。
エウレカ。ギリシャ語だそうです。本書では『ヘウレーカ』と表現されています。英語なまりでは『ユリーカ』です。
エウレカをご説明するには、アルキメデスという古代ギリシャの科学者のエピソードを語ることになります。
とある日、アルキメデスは王に呼び出されて王冠を渡されました。
王曰く、その王冠が百パーセントの純金であるかを確かめろとのこと。
王は王冠を作った細工師がなにか混ぜ物をして金をちょろまかしているのでは? と疑っていました。
アルキメデスは考えます。どうしたらこの王冠が純金であるのかを確かめられるのか?
まず重さを比較してみると、王冠と細工師に渡した金の重さは一致します。
次に、もしなにか混ぜ物がしてあったとしたら、と考えてみます。
例えば銀が混ぜられているとすると、銀は金よりも軽いですから、王冠を渡された金と同じ重さにするには銀を多く使わねばなりません。ということは体積は大きくなるはずです。
つまり王冠の体積を知ることができれば良いのです。
だけど、冠の体積って、どうすればいい? どうすればはかれる? つぶしてサイコロ型にすればいいけど、すごく、怒られるような気がする。 (34ページより)
サイコロのくだりは思わずクスッとしてしまいました。サイコロ状の、かつて王冠だった固まりを片手に、嬉々として王に謁見するアルキメデスの姿がありありと浮かびます。
それはさておき、実際のところどうすれば王冠という複雑な形状の物の体積をはかれるのでしょうか?
アルキメデスは考え続け、ある時、お風呂に入って零れたお湯を見てひらめきました。
このときアルキメデスが叫んだとされるのが『ヘウレーカ』です。「みつけた」とか「わかった」という意味で、本書では「あ、そうか!」と訳されています。
アルキメデスが思いついたのは、まず水を張った容器に純金を入れて水を溢れさせ、次いで純金を取り出してから王冠を入れるといったもの。
これで、もし王冠の体積が大きいのであれば、水は更に溢れるはずです。
さすがは稀代の科学者アルキメデス。頭いい。と、終わらせてはなりません。アルキメデスはどうしてこのようなやり方を思いつくことができたのでしょうか? それについて考えてみましょう。
あ、因みに王冠を入れたら水は更に溢れてしまったそうです。
『エウレカ』を得るために必要なこと
言わずもがなアルキメデスがひらめいたのはお風呂から零れるお湯を目にしたからです。
しかし、もしこのときアルキメデスが「お風呂から零れる水」と「王冠の体積」とを結びつけなければ、得る可能性のあったエウレカは、ただ単にお風呂に入るという日常に埋もれていたはずです。
アルキメデスのエピソードから私たちが得る教訓はこうです。
問題となることを常に頭の片隅に置いておこう。ということです。漫然と食事をしたり仕事をしたりせず(仕事はほどほどに集中しましょう)、問題解決となることに常にアンテナを張っておくことが重要なのです。本書ではこのことを次のように表現しています。
答えの候補が現れたとき、いつでもぼくはそれをつかまえられるように、「チューニング」してるってわけだ。何かが思い浮かんだときに、「これがあの問題の答えかもしれない!」って声が響く。その声に耳を澄ましていること。
集中して考えているときには、それは鋭敏に研ぎ澄まされている。他の声に耳をかさず、すべてをその問題に関係させて、「これだ!」という声を待つ。そういうとき、ぼくたちは「考えている」って言うんじゃないだろうか。(29ページより)
おわりに
というわけで本日は『エウレカ』のお話しでした。
私のイメージする”考える”は自分の中からひねり出すようなものだったので、アルキメデスのように外部の刺激によってひらめくということはとても勉強になりました。作家になるためにも、常に考えることを徹底していこうと思いました。
とはいえ、あまり頑なになってもいけないとは思います。”考える” ことが、”考え続けなければ” という強迫観念になってしまったら、良いエウレカは得られないと思います。問題を”頭の片隅” に置き続けるといったスタンスで今後過ごしていこうと思う次第です。
みなさまもどうぞよしなに。
本日はありがとうございました。それではまた。