みなさんは「書簡体小説」をご存じでしょうか?
恥ずかしながら私は知らなかったのですが、手紙の文体で書かれた小説だそうです。
十八世紀には盛んだったのですが、十九世紀に入ってから衰退していったんだそう。
今回はこの「書簡体小説」を学んでいこうと思います。
参考書は『小説の技巧』となります。
参考文献:デイヴィット・ロッジ[著]、柴田元幸・齋藤兆史[訳]『小説の技巧』白水社
書簡体小説の特性
まず書簡体小説は一人称の一種となりますが、自伝的な一人称と比較すると違いがあります。
それはリアルタイム性です。自伝の一人称では語り手が物語の内容を知っているのに対し、書簡体の一人称では語り手は新たな事態の発生を随時たどることになります。
このリアルタイム性の効果は日記形式の一人称でも出すことができますが、書簡体小説にはさらに2つの利点があるのです。
1つ目の利点は、書簡体小説は複数の視点を持たせられるということです。
一人称の利点のひとつは主観による世界の観測です。これはある特定の出来事が語られたとしても、その語り手によって全く異なる物語になることに面白さがあります。
本書ではリチャードソンの『クラリッサ』を好例としています。
リチャードソンは『クラリッサ』でこれを見事に実践してみせた(たとえばクラリッサは友人のハウ嬢に宛てて、ラヴレイスとのある会話について知らせ、放蕩に明け暮れた過去をラヴルイスが本気で捨てる気でいるようだと伝えるが、一方ラヴレイスは、同じ会話を彼の友人ベルフォードに伝えて、それがクラリッサを誘惑するための狡猾な策略だったと打ちあける)。
(41ページより)
”とある会話”をクラリッサの視点とラヴルイスの視点でそれぞれ描くことで、読者に比較してもらうことが可能となります。
続いて書簡体小説の2つ目の利点です。
それは手紙というものは読む相手がいるということです。この利点こそ書簡体小説特有と言って良いのではないでしょうか。
自伝的でも日記的でも、一般的な文体ではそれを読むのは読者自身です。
しかし、手紙の場合は読者以外にも、本来読まれるべき人が存在します。(上記の引用ではハウ嬢やベルフォードのこと)
この特性を上手く利用できれば、レトリック的にも複雑で奥行きのあるものにすることができます。
本物と偽物の文章についての考察
本書に、私にとってとても興味深い考えが述べられていたのでご紹介します。
文章というものは、厳密にいえば、他の文章を忠実に模倣することしかできない。喋り言葉を再現することも、いわんや言語ではなく出来事を再現することも、きわめて人工的な営みに他ならない。けれども、虚構の手紙は本物の手紙と区別不可能である。そこが強みなのだ。
(42ページより)
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この部分なのですが、興味をそそられながらも、正直どう解釈するのかが私には分かりませんでした。
「他の文章を模倣」という部分と「人工的な営み」という部分がいまいち理解出来ません。
というわけで今回は勝手な解釈をさせていただこうと思います。
作家が会話や出来事を文章で表現しようとした場合、それらに合った近しい言葉やレトリックを用いて当てはめていくわけですが、これは厳密にはその会話や出来事そのものを現したものではありません。極めて擬似的なものであります。
言ってしまえば偽物なのです。
対して、書簡体小説における手紙は、書き手が綴った手紙という点において本物を現した文章となるわけです。
小説で何か(感情や会話、出来事など)を表現したいと思ったとき、幾千幾万の文を重ねたところで本物に至ることはできません。私はそこにもどかしさを感じるのですが、これを追求することもまた小説を書くことの楽しみだと思います。
書簡小説の存在は、そのひとつの道を見せてくれたように感じました。
おわりに
ということで今回は書簡小説のお話でした。
正直実践するのは難しいそうというのが本音ですが、読者以外の読み手の存在というのは面白いなと感じました。書簡小説そのものは書けないまでも、その特性だけを上手く使えないか考えてみるのも面白そうと思いました。
もし興味を持たれた方がいらっしゃれば、書簡体小説に挑戦してみてはいかがでしょうか?