村瀬健先生の『噺家ものがたり』を読んだので感想です。
本作は第24回電撃小説大賞の選考委員奨励賞受賞作となります。
出典:村瀬健2018『噺家ものがたり〜浅草は今日もにぎやかです〜』メディアワークス文庫
あらすじ
本作の主人公である千野願は就職活動中の大学生。物語は願がタクシーで面接に向かう場面から始まります。ようやくこぎつけた最終面接でした。なのに願の心は晴れません。
果たしてこのまま就職して良いのか? という迷いがありました。願には、自らが進もうとしている道がつまらないものに思えて仕方なかったのです。
惑いの渦中にある願の独白が地の文で綴られていきますが、そこに割り込むものがあります。『』(二重鉤括弧)で綴られた声はカーラジオから聞こえてくる、とある落語家の噺でした。
悶々とした願の独白と、落語家の流暢な噺は噛み合うことなく平行線を辿ります。そんな状態が1ページを超えて続いたところで、ついに願の思考が断たれることになるのです。
願の唇から意図せずこぼれ落ちたのは小さな笑いでした。人生という大きな悩みを抱えていたにも関わらず思わず笑ってしまったのです。
そこから先は落語家の噺に聞き入る願。
そして噺はオチを迎えます。ところが冒頭のこの場面で、私たち読者に噺のオチが語られることはありません。代わりに描写されるのは噺を聞いて涙を流す願の姿です。これは否が応でも物語への期待がふくらみます。
ラジオの向こう側の落語家に心奪われた願は、その衝動を次のように語ります。
胸に、何かがどくんと入ってきた。俺に何かを伝えるように、放射線状に全身を駆け巡る。
決めた——。(10ページより)
素敵な描写だと私は思いました。
ここまで鮮烈に、それも一瞬にして心を射貫かれるような出会いを、残念ながら私は体験したことがありません。それでも、このとき願の受けた熱と衝撃とが、いかに願の目を覚まさせたかは容易に想像することができます。
他者(登場人物)を通して自分の知らない感情を追体験する。これこそ小説の醍醐味のひとつではありませんか。
願はタクシーを引き返すよう、すぐさま運転手に頼みます。向かう先は自身の通う大学です。
行こう。
俺、大学辞めてくる。(10ページより)
翌日には浅草を訪れ、件の落語家に弟子入りを求める願。果たして願は、無事落語家になることができるのでしょうか?
というわけで本作はタイトル通り落語家のお話になります。私は落語について、とりわけ落語家がどのような修練や生活を送っているのか知識がありませんので、本作がどこまで忠実に描かれているかは判断できません。
それでも、この世界観にリアリティを感じながら、何より落語家の考え方や生き様を垣間見ながら読み進めることができました。みなさまもぜひ一読下さい。
ではここからは、ワナビ視点で印象に残った部分をお話しさせて頂こうと思います。
落語の物語で期待されるのはやはり”面白い掛け合い”
本作には当然落語の噺が多数登場しますが、登場人物たちの普段の会話からして笑いの精神が滲み出ております。
「……もうすぐ、参議院選挙みたいですね」
気まずい沈黙に耐えかねて、どうでもいいことを口走ってしまった。
「師匠は、選挙とか行かれますか?」
おもいきって、訊いてみた。
「当然だろ」
「師匠って、どこに入れるんですか?」
「箱だ」
最初その言葉の意味がわからなかったが、ジワジワきだした。
「いやあの、票を入れる場所を訊いてるんじゃなくて、どの党に入れるのかなと思いまして……」
意表を突かれすぎて、たじたじになった。(212ページより)
実はこの場面、けっこうシリアスなシーンなのですが、ここにも笑いを取り入れてくるあたり作者さまも徹底しております。この後の会話でも更に2つほど笑いを誘う掛け合いが続きます。落語家とはこういう生き物か、と思わされました。
小説において笑えるシーンがあるというのは重要です。もちろん作風によってその種類と量に違いは出てくるものですが、それぞれに見合った笑いは取り入れるべきと思います。私はこれが絶望的に苦手です。狙って書くとわざとらしさが出て読者がしらけるようなものになってしまうし、かといって自然にユーモア溢れるジョークが出てくるわけでもありません。難しいところです。
その点、本作が掲げた落語家のものがたりという看板は、どうしたって読者に笑いを期待させます。落語の世界観や、落語家としての登場人物像の重要度もさることながら、何よりも求められるのは落語の面白さをいかに描くかということです。
本作は十二分にそれを成していると私は思います。
魅力的な”生きた”登場人物
本作では多くの落語家が登場します。
そのひとりひとりが魅力的です。なぜこんなにも魅力的な”キャラクター” を描くことができているのでしょうか?
フィクション作品における人物を魅力的にするには、その人物をとことんまで掘り下げていく必要があります。そのために必要なのは、やはり創作の人物にも過去があって、様々な体験から考え、今があることを踏まえることだと思います。小説は連綿と続く時間軸の一部を切り抜いて表現することで形になりますが、だからといって今だけを見ていてもいけないのです。
本作の落語家たちにはそれぞれの過去があり、そこから形成される人物像を上手く表現されています。
さらに落語家という立場を上手く利用することで、個性を出すことにも成功しています。本作では登場人物たちが創作落語を披露するシーンが随所に見られます。創作落語とは、受け継がれてきた伝統的な噺(古典落語)ではなく、新たに自分で作り上げた噺だそうです。
この創作落語にそれぞれの人生を垣間見ることができるのです。
おわりに
本作を読む前、落語の物語とはどんなものだろう? どうやって描くのだろう? と私は思っていましたが、さすがは電撃大賞受賞作でした。落語を知らない人でも十二分に楽しめる作品に仕上がっており感嘆しました。
これを書いた村瀬先生とはどんな方なのだろうと、読んでいる間からあとがきを楽しみにしていたのですが、残念ながら本作にあとがきはありませんでした。著者が顔を出すことで世界観が壊れることを嫌われたのか、それとも何か別の理由があったのかはわかりませんが、作家志望の身としては、村瀬先生が落語に精通していらっしゃる経緯が気になるところではあります。
笑いは私が苦手としている部分でありますから(なんだか苦手なことばかりな気もします……)、大いに勉強になりました。実は笑いに関する本もいくつか買ってあるのですが、積読状態になっています……。これを機に時間を見つけて読んでみようと思いました。機会があったら当ブログでも取り上げさせて頂きます。
では、末尾には本作で私の印象に残ったシーンを取り上げさせて頂きます。未読の方は、是非とも一読頂いてからご覧下さるようお願いします。ここまで読んで頂きありがとうございました!
「しかし墓ってのは、いい文化だよな」
どしゃ降りの窓の外を見ながら、師匠がしみじみと言った。
「どんな人間も、死ねば等しく墓に入る。仕事で財を成した者も人を殺した者も、産まれてこなかった者でさえ。私はその精神文化がとても美しいと思うんです」
「……ですね」
少し間があって、隣の猫さんが言葉を返した。
「人生ってのは、落語と似ているんです。死に際に、どんなサゲ方をするか。これが肝心なんです。そしてたとえ最後に看取ってくれる者がいなくても、自分が歩んだ道に後悔がなければ、そのサゲは光を放ちます」
猫さんはあごを指で撫でながら、神妙な表情を浮かべている。
「あたしは死ぬときは、板の上で死にたいと思っています。高座で死ねるなんて、噺家冥利に尽きるってもんです」(166ページより)
笑えるだけの小説じゃない。物語としての、人間としての深みを感じさせる場面。