今回のテーマはティーンエイジ・スカースです。直訳は若者の一人称。
参考書は『小説の技巧』となります。
参考文献:デイヴィット・ロッジ[著]、柴田元幸・齋藤兆史[訳]『小説の技巧』白水社
スカースとは?
「スカース」(skaz)はロシア語で、書いているよりも喋っているように感じられる、いわゆる一人称での語りを意味します。
その特徴は以下のようになります。
- 言葉も構文も口調的
- 思いつくままに書かれたような印象
- 読者は読んでいるというより聞いている気になる
一見すると書くのも簡単そうに見えるスカースですが、効果的に利用するのは至難の業です。
いかにも喋っているような雰囲気は、実は、「本当の」作者が計算に計算を重ねて、丹念に推敲を加えた結果である。かりに現実の話しぶりを忠実に模倣した語り口で書いたとしたら、会話を録音してそのままテープを起こしたものと同じで、ほとんど理解不可能な代物しか出てこないだろう。計算して作り出したものこそが、本当らしさ、誠実な響き、真実を語っているという印象を生み出すのである。
(34ページ)
一人称は三人称と違って客観視できませんから、読者は終始語り手の視点で物語を読み進めることになります。ひとりの人間(語り手)が見るものや感じること、思うことと話すことがすべて自然体でなければなりません。読者が不自然を感じた途端に、その物語は魅力を失ってしまいます。
自然体を計算して書く。本書で述べられているようにこれは極めて難しいことです。
私は一人称が苦手なのですが、部分的ならなんとか取り繕えても、物語を通してとなると到底自然体には書けません。
私のように才能だけで書くことのできない場合は、やはり先人の作家先生方に学ぶしかありませんね。
本書ではJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(一九五一)が例文として一部載せられておりますが、アメリカの小説家たちにとってのスカースはイギリス・ヨーロッパの文学伝統の束縛から解放されるための手段だったんだそう。
それに弾みをつけたのがマーク・トウェインだとのことです。
「現代のアメリカ文学はすべて、マーク・トウェインによる、『ハックルベリー・フィンの冒険』という1冊の本から生まれている」とはヘミングウェイの言です。
本書によるトウェインに対する記述を引用します。
トウェインの成功は、日常的で口語的な語り口を、素朴で未熟な語り手と組み合わせたことにあった。この思春期の少年は、自分が頭で知っている以上の叡智を持っている。その目を通して大人の世界の像は、読む者をはっとさせるみずみずしさと正直さを備えている。
(34ページより)
今回のテーマである「”思春期の若者”による一人称」に触れています。
一人称は語り手の知っていることや感じていること以上の事を書くことができません。これはとても大きな縛り事であり、私が一人称を苦手とする理由のひとつです。
物語の全てを知っている作者が、その一部、しかも一つの視点でしか書けないのはある種の苦痛ではないでしょうか?
しかしこの縛りを上手く使うことでより高次の表現が可能となることもまた事実なのです。
いかにして一人称(今回は特に”若者の語り”)を有効利用するのか、引き続き本書から見ていきましょう。
『ライ麦畑でつかまえて』のティーンエイジ・スカース
本書で引き合いにされている『ライ麦でつかまえて』のワンシーンは、語り手の「ホールデン」が女友達「サリー」と共に芝居を見に行った際に、ロビーでサリーの知り合いと出会ったときのものです。
このシーンを見るためのポイントは以下の2つです。
- ホールデンは大人の世界からの脱走者であること。(大人の偽善、金銭欲、インチキ臭さといったものを嫌うのは思春期の若者にありがちなことです)
- このシーンではサリーと知り合いとが”大人”の社交的行動(会話)をします。それをホールデンが一人称で皮肉を込めて見ています。
ホールデンの視点で、このシーンはどのように描かれるのでしょうか?
特徴を以下に挙げます。
- 書き言葉より話し言葉(若者特有の語り)を多用。
- スラングの繰り返しが多い。(例:「阿呆(jerk))」「インチキ(phony)」「大したもんだよ(big deal)」など)
- 誇張による感情表現(例:「煙草を死ぬほどふかして」「二十年ぶりに再開を果たしましたって感じで」など)
- 文の組み立てはシンプル。
- センテンスはおおむね短い。
- 長めのセンテンスがあったとしても単純で、思いつくままにつながれたように見える。
- 完全な文になっていない、動詞を欠いたセンテンスが多い。(例:「大したもんだよ」など)
- 文法的間違いもある(現実にありがちなもの)
こうしてみるとやはり簡単そうに見えるんですけどね……
難しい文が書けなくても良くて楽だと思えてしまいがちですが、センスが要求されますよね。
間接話法による対比
上記のシーンでは「知り合い」の発言を間接話法で描写することによって、ホールデンの直接話法との対比を行っています。
「で、奴は、劇そのものは傑作とはとうてい言えないが、ラント夫妻、むろんあの二人はすごい、あれは掛け値なしの天使だ、と言ってのけたんだ」。間接話法で伝えられることで、この発言はいっそうおとしめられ、不自然な感じに響く。ホールデンが思わずサリーに対する苛立ちを爆発させるところの直接話法(「じゃあ行ってフレンチキスでもしてやれよ……」)とは好対照だ。
(36ページより)
間接話法は他者の言ったことでありながら、実際に表現しているのは語り手です。
これを効果的に使えることも一人称の強みと言えるのではないでしょうか?
ティーンエイジ・スカース(若者の一人称)の利点は?
さて、『ライ麦畑でつかまて』からティーンエイジ・スカース(若者の一人称)を見てきましたが、そもそも語り手を「若者」にする利点とは何でしょう? 「大人」の語り手ではいけないのでしょうか?
今回学んできて私が思ったのは、読者は第三者の視点で若者の一人称を見るのではないかということです。
私はこれまで、一人称の強みは読者が語り手に入り込んで、その視点を借りることで世界と物語とを楽しめることにあると思っていました。
もちろんそれもひとつの事実なのでしょうが、「若者の一人称」に際しては、読者がどこか生暖かい目で彼らを見たり、あるいは彼らの感受性によって捉えられる世界を新鮮に感じたりすることこそ強みなのではないかと感じました。
語り手に共感させるばかりが一人称の強みではないのかもしれませんね。
おわりに
文中で述べたように私は一人称が苦手です。(というよりほとんど書いたことがありません)
しかし、次に応募する作品は一人称で書こうと思っております。そういう意味でも今回のティーンエイジ・スカース(若者の一人称)は興味深く、とても勉強になりました。
三人称による表現も追求していきたいと思う一方で、一人称も奥が深いなぁと思った次第です。
みなさんも是非いろいろ研究し、自分の文体を構築していただければと思います。
それではここまで読んで頂き、ありがとうございました!