文末表現を意識した文章を書こう! 常体と敬体の特徴も紹介します。

あなたの文章は子供っぽい。単調すぎる。
そんなふうに言われたり、あるいは自分で思ったりした経験はないでしょうか?

もしあるのなら、あなたは文末表現を適切に扱えていない可能性があります。

文末表現とは、文の末尾(終わり)の表現のことです。
代表的なものは「です・ます」や「だ・である」といったところでしょうか。

この文末表現をいかに扱うかで、文章のイメージは大きく変わってしまうのです。

次の文章は夏目漱石の『吾輩は猫である』の書き出しです。
みなさんも一度は目にしたことがあると思いますが、ぜひ一度、声に出して読み上げてみてください。

吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。

夏目漱石『吾輩は猫である』より

いかがでしょう、とても語呂の良い美しい文章だと思いませんか?
実はその秘密が文末表現にあるのです。

『吾輩は猫である』の文末表現吾輩は猫である。名前はまだ無い
どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。然もあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ

ご覧のように『吾輩は猫である』の冒頭6文はすべて異なった文末表現が用いられています。

もっと分かりやすくするために、文末表現を変えてみたのが以下の文章です。
(一部、単語選びも変えていますが文意は変わっていません)

文末表現を変えてみると……吾輩は猫。名前はまだ無い
どこで生まれたかとんとわからない。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは忘れていない。吾輩はここで始めて人間というものを見た。然もあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族だった

もともとの文章構成が秀逸なためこれでもそこそこ読めてしまいますが、原文と比較するとその差は歴然です。
『吾輩は猫である』の冒頭文を注意深く見てみると、夏目漱石がいかに考えて書いているかが垣間見えます。

  • 作品タイトルでもある『吾輩は猫である』は『吾輩は猫だ』でも意味は通ります。しかし、先頭のインパクトとしても、後に続く『名前はまだない』の一文への繋がりを考えても、「である」という文末表現が最適だと言わざるを得ません。
  • 『見当がつかぬ』の部分は普通なら『見当がつかない』と書くところ。しかしそれでは、直前の『名前はまだ無い』という一文と「ない」という音が被ってしまうため、あえて「つかぬ」という表現をしたと思われます。
  • 最後の『あったそうだ』という表現、これは伝聞を表しています。しかし、文の前半に『あとで聞くと』とあるので、これもまた伝聞を示します。つまり伝聞であるという情報を二重にしているのです。これは、前後の文とリズムの調合を取ったり、”あくまで聞いた話だ”とぼかしたイメージを与えるためにこうしているのでしょう。

このように文末表現は奥が深く、少し変化するだけでも文章のイメージは一変します。

夏目漱石のように美しい文章を書こうと思うと難しいですが、読み手に違和感を与えずに読んでもらう程度の文末表現でしたら、特別な知識がなくても少し意識を変えるだけで修得できます。

今回は私なりの例文もご紹介しつつ、文末表現の上手な扱い方を説明していこうと思います。

”常体(だ・である調)”と”敬体(です・ます調)”

最初に覚えておかなければならないのは、文末表現には常体と敬体があるということです。

常体は「だ・である調」、敬体は「です・ます調」。
何も難しいことはありませんが注意が必要なのは、文章を書くときは常体か敬体、どちらかに統一しなければならないということです。

つまり次のような文章はNGということになります。

常体と敬体が混じってしまった文章近年、スマホの普及には目を瞠るものがある
掌に収まるあの箱の中には膨大な情報の海が広がっています
それを生かすも殺すも、すべては私たち次第

この例文では「ある」「だ」という常体と、「います」という敬体が混じってしまっています。
読んでいて違和感を覚えた人も多いのではないでしょうか?

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常体と敬体は、特別な意図がない限りは、次のように統一しましょう。

常体と敬体は統一する〈常体に統一〉
近年、スマホの普及には目を瞠るものがある
掌に収まるあの箱の中には膨大な情報の海が広がっている
それを生かすも殺すも、すべては私たち次第
〈敬体に統一〉
近年、スマホの普及には目を瞠るものがあります
掌に収まるあの箱の中には膨大な情報の海が広がっています
それを生かすも殺すも、すべては私たち次第です

しかし統一と言われても、常体と敬体、どちらを選択するか迷う方もいらっしゃると思うので、それぞれの特徴も挙げておきます。

いろいろ要素はありますが、一番のポイントは書き手の存在を読み手に意識させたいかどうかでしょう。
書き手の存在よりも文章の中身を正確に伝えたい場合は常体
逆に、書き手の存在を意識して読んでもらいたい場合は敬体を用いると良いかと思います。

常体(だ・である調)の特徴

  • 堅い印象を与える
  • 書き手と読み手の距離が遠く感じられる(もしくは書き手の存在を感じさせない)
  • 断定的な印象を与える
  • 内容を伝えやすい
  • 報告書、レポート、論文などに向いている

敬体(です・ます調)の特徴

  • 丁寧で柔らかな印象を与える
  • 書き手と読み手の距離が近く感じられる
  • 意見・主張をぼかして書きやすい
  • 書き手の存在を表に出しやすい
  • 客相手のやりとりやブログなどに向いている

意識するのはこれだけ!「同じ文末表現が連続しないようにする」

冒頭では『吾輩は猫である』の文末表現の意図を考察しました。
前後の文章との関係や、文全体のリズム、情報としての断定具合など、こだわり出すとキリがないので、まずは一つだけ意識するようにしましょう。

その一つというのが、同じ文末表現が連続しないようにすることです。
すべて違う表現にするのは無理があるので、2連続まではOK、3連続はNGぐらいを基準にするようにします。

これだけでも、かなり引き締まった文章になるはずですので、ぜひ試してみてください。

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文末表現を変えるためのテクニック

「同じ文末表現3連続はNG」という基準で文章を書いていると、文意や前後の文との繋がりによっては上手くいかない場面に遭遇するはずです。

そういう場合に、無理やり文末表現を変えてしまうと違和感が生じてしまったり、最悪文意が変わってしまうということになりかねません。

そこで今回は、自然に文末表現を変えるテクニックをいくつかご紹介しておこうと思います。

体言止め

体言止めとは文末を名詞で終える方法です。

文章にリズムを出したり、余韻を持たせるには効果的です。
しかし多用しすぎると文章が軽薄な印象になったり、品格に欠けたりする場合もあります。
ここぞという場合に限って使用するのがおすすめです。

”体言止め”でリズムを出す私の趣味は音楽鑑賞です。なかでも、いちばん好きなジャンルはクラシックです

私の趣味は音楽鑑賞。なかでも、いちばん好きなジャンルはクラシックです

「です」という文末が続いていたのを、1文目を体言止めにすることでリズムを出しています。

文をまとめてみる

複数の文がある場合、それらを1つにまとめることで、文末表現の連続を防ぐことができます。

複数の文を1文にまとめる私は毎朝6時に起きます。まずはカーテンを開けて朝日を浴びます。そして一杯の水を飲みます

私は毎朝6時に起床して、カーテンを開けて朝日を浴びた後、一杯の水を飲みます

長文よりも短文の方が意味は伝わりやすいので乱用は危険ですが、文意の伝わりやすさやリズムなどを考慮しながらであれば、使い勝手の良い方法です。

語順を変えてみる

主語の位置などを変えることでも文末表現を変化させられます。
こちらも読みにくい文章にならないよう気をつけてください。

語順を変える探し求めているのは、自分が心底打ち込める何かです

自分が心底打ち込める何かを探し求めています

おわりに

文章は伝えたいことをただ書けばいいものではありません。

読みやすい文章、美しい文章を書けば、読み手は安心して読み進めることができ、結果的に正確に情報を伝えることに繋がります。

今回ご紹介した「文末表現」は、少し意識を変えるだけで文章を良くすることができるので、ぜひ気をつけてみてください。

それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました!

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