音が消え去った。風の音も、互いの心臓の鼓動音も聞こえなくなった。入れ替わるように訪れたのは一瞬の浮遊感だ。次の瞬間には風切りの轟音と風圧に全身が包まれた。
足下の陣が消え、イーファを腕の中に閉じ込めたまま落下していた。
徐々に加速する。抱き合ったまま、互いの顔を見ることは出来ない。
(これは、まずいな……)
落下限界を超えた辺りで、エンナは思った。もはや自らの力ではこの落下から離脱することはできない。助かるには、羽根のある生きものであるイーファの決断が必要だった。
二人で死ぬか、あるいは二人で生きるか。そういう究極の二択を迫るための行動だった。
しかし、思った以上の誘惑にエンナまでもが戸惑っていた。
冷たい風を浴び続けているというのにイーファの体温がそれ以上に温かい。このままこの温度に身を委ね続ければ、愛する人とともに全てを終えることができる。生きるのが恐いと口にしたイーファはこれ以上ない選択を迫られるに違いなかった。
ぬるま湯に身を委ね続けて逃げ出す選択と、未来へ向けて自ら踏み出す選択。どちらが容易いか、誰の目にも明らかだった。
「それでも、あんたは強い人だ」
呟いた言葉はきっとイーファには届かない。それでも抱きしめる腕に力を込めると、僅かにイーファも返してくれた。それを合図とするように空へと向かう負荷を、ゆっくりとイーファの腕を通じて感じた。
徐々に落下の速度が弱まっていき、ついに静止した。エンナをぎゅっと抱きしめたまま、イーファは自らの選択で飛んだ。
「また助けられたな」
にっと無邪気な笑みをエンナが浮かべた。らしくない笑い方だと自分で思ったが、どうしようもなく幸せな気持ちになって自然とそうなった。
「ばか。助けられたのはわたしです」
抱き合ったままではイーファの表情を窺うことはできないが、きっとイーファも同じ顔をしているのだろうという確信があった。証明するように、呼応石を通じて幸福の気持ちは伝わっていた。
「なら、これで相子だな」
「……貸し借りとかどうでもいいです」
拗ねたような声音だった。
エンナが足下に陣を張ると、二人でそこに立った。僅かに身を離し、互いに見つめ合う。
「なんて無茶なことするんですか」
「信じてたよ」
「……正直、あのままあなたと死ねたら幸せだと思いました」
「ああ、俺も思った。あれはちょっとまずかったなぁ。あんたの存在は思った以上に俺の中で大きいらしい」
恥ずかしげもなく言ってやると、イーファは頬を染める。
「エンナ、なんか変わりましたよね。最初はもっと根暗な感じだったのに」
「ひどいな……」
「でも、後ろ向きなくせに、いつでも前を見てる感じは変わりませんね。そういうとこ、大好きですよ」
花が咲いたようにイーファが笑う。そんな顔にどきりとさせられるのが悔しくもあり、それ以上にやはり嬉しかった。
「後ろ向きで前を見るって、矛盾してるだろう」
「ふふ、ですね。でもエンナってそういう人です」
イーファがエンナの手を取り、胸元に抱き寄せて瞳を伏せた。
「生きることが怖いのは変わりません」
「みんなそうだよ」
「わたしは特別臆病なんです。なんたって悪の生き物ですから」
「俺だって恐がりだよ。だからこそ、俺もあんたもきっと強くなれる」
こくりと頷いたイーファが瞼を開けて、エンナを見つめた。出会った頃から変わらない、吸い込まれそうな瞳だった。
「出会ってくれてありがとう。これからもよろしくお願いしますね」
夕焼けに染まる空が二人を包み込んでいる。
この空のように、未来はきっと何処までも広がっているのだろう。そのなかのひとつを選びながら、これからも生きていくのだ。
恐怖は尽きない。それでもきっと大丈夫なのだろうと思えた。