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「俺が一番でイーファが二番。んでエンナが最下位、と。まあ順当だな」
天狼たちが思い思いにくつろぐ草地を歩みながらアンガスが頷く。
「……どう考えても不公平だろう。お前らのが早いに決まってる」
「フライングして負けました……」
最初から勝ち目などないことをわかっていたエンナは大して悔しいとも思わずいるが、アンガスに負けたイーファは悔しげにうなだれている。
「おまえもイーファもとろすぎ」
アンガスは完全にからかう体勢に入っている。
「アンガスが速すぎるんです! しかも手加減してるし……」
エンナはイーファの言葉に驚いてアンガスを見た。
「お前、あれで手加減してたのか?」
「当たり前だろ。あれ以上ぶっちぎってどうするんだよ」
「でたらめな奴だな、ほんとに」
もはや呆れるしかない。エンナも勝てないとは思いつつ本気で走ったのだ。魔力による肉体活性を駆使し、陣の発動も最速かつ最高のタイミングで行った。あれについてこられる者は天駆のなかでもウォルスくらいのものだろう。
それですら置いてけぼりをくらい、アンガスはなおも本気でないという。彼の底力はどれほど強大だというのだろう。
「俺を倒す自信がなくなったか?」
「そもそもお前と戦うとは言ってない」
「なんだ、イーファに頼まれたんじゃないのか? 一緒に戦ってください、って」
エンナはそのことを口にしてはいない。イーファを横目に見ると、イーファは慌ててぶんぶんと首を横に振っている。イーファが言ったわけでもない様子だ。
イーファが窺うようにアンガスを見上げると、アンガスはイーファの頭に乱雑に手を置く。
「何年一緒にいると思ってんだ。お前の考えそうなことなんてお見通しだよ」
「……別にアンガスにばれたって関係ありません」
イーファはばつの悪そうに唇を尖らせている。どうやらばれるとは思っていなかったようだ。
「で? どうやってエンナを落としたんだ? 色仕掛けか? あいつは一筋縄じゃあいかないだろう?」
エンナに聞こえないようイーファの耳元でアンガスが囁くと、イーファは一気に顔を紅潮させて声を上げた。
「そんなことしてませんっ!」
「はは、幸せそうで何よりだ妹よ」
何の話をしているのかと首を傾げるエンナと、仲睦まじく喚く兄妹の姿を天狼たちが何事かと見やっていた。
しばらく歩くと、巨木の下で天狼たちが何頭か身体を丸めて眠っているのが見えてきた。木の葉の隙間からこぼれる陽が、編み目になって天狼の身体にゆらゆらと揺れていた。
その中に、一頭だけ明らかに異なる種の獣があった。アイオンだ。翼を持たぬその姿は、天狼たちのなかにあるとどうにも浮いて見えるのだが、当人たちはそんなこと関係ないように身を寄せ合って穏やかに眠っている。
微笑ましい気持ちにさせられる光景だった。ヒトもこんな風に在ることができたらとエンナは思う。
エンナたちが近づくと、天狼たちの尖った耳がぴくりと動いた。しかし近づいてくるエンナたちに害意がないことを敏感に察すると、うっすらと開いた瞼を閉じて、再びまどろみの中へと沈んでいく。
エンナの姿を認めたアイオンだけがのそりと起き上がり、他の天狼たちを起こさぬよう静かに木陰から出てきた。
「休んでるところ悪いな、アイオン」
エンナが頭を撫でてやると、アイオンは嬉しげに喉を鳴らす。
イーファも横から手を伸ばし、首元の真っ白な毛並みを優しげに撫でた。
「ごめんね? まだ休んでてもいいよ?」
イーファが言うと、アイオンは心配無用とばかりにイーファに身を預けて頬を擦り寄せた。
「あはは、くすぐったいよ」
嬉しそうに表情を和らげるイーファに、エンナも穏やかな気分にさせられる。そんな様子を見ていたアンガスが隣にやって来た。
二人して、アイオンとじゃれ合うイーファを遠巻きに眺めた。
しみじみとした様子でアンガスが口を開く。
「どうだ? 可愛いだろ、俺の妹は」
「惚気るなよ」
「事実だろ?」
「……まあな」
反論する理由も術もなかった。
アンガスはそんなエンナを面白がるような眼差しで見ると、小さく笑んだ。
「珍しく素直だな。素直ついでにもうちょっと頑張って口説いてみたらどうだ?」
どことなく本気な様子のアンガスをエンナは意外に思う。妹に近づく男は許さないといった考えをしても良さそうなくらいアンガスはイーファを溺愛しているように見えた。
同時に呆れてもいる。イーファ自身にも昨夜同じようなことを言われたばかりだ。兄妹揃って人をからかって何が面白いのだろうかと思う。
「俺にはもったいないな」
謙遜ではない。受け流すようなふりをしながらも本心から出た言葉だった。
「そんなことねぇよ。おまえだったら許すよ」
アンガスは至って真面目にそんなことを言う。エンナとしてはわけがわからない。一体何を考えているのだろうか。
「大事な家族だろう。もっと真面目に考えてやれ」
「考えてるよ。……あいつの幸せは何にも代え難いからな」
呟くように零れた言葉はアンガスの本音に違いなかった。不適なこの男の時折見せるこういう所は嫌いになれないエンナだ。知らず知らずにふっと微笑んでいる。
「そう思うなら、自分が死ぬことなんて考えるな。お前が生きていることがイーファにとってはなによりの幸福だよ」
「甘ちゃんな考えだなぁ。あれもこれもと、全部なんて手に入らないもんなんだよ。人生なんてそんなもんさ」
人生などと大それたことを語るアンガスがこれまで何を見て、感じてきたのかをエンナは知らない。そしてヒトならざるこの男がこれまでにどれほどの時を生きてきたのだろうか想像がつかなかった。
「イーファにとってはお前の存在が全部だよ。それこそ何を投げ打ってでも守りたいだろうよ」
「今はそうかもな。……でもそれじゃあ駄目なんだよ」
寂しげな眼差しを妹の背に向けるアンガスに、エンナはなんと応えて良いのか判らなかった。
口をつぐみながらももう少しアンガスと話したいと思うエンナだが、背後に人の気配を感じてその機会は失われた。
「エンナか?」
振り返るとウォルスがこちらに歩いてくるところだった。その背後には見知った顔がもう二人いた。男性の方がリオウ、女性の方がフィスという。二人とも二十代半ばとまだ若いが才気溢れる天駆であり、ウォルスの隊に所属している。
「先生、どうされたんですか?」
今日はウォルスの隊に任務の予定はなかったはずである。
「こいつらが訓練に付き合えとうるさくてな。仕方ないからこれから実戦訓練だ」
親指で背後の二人を指しながら嘆息するウォルスだが、内心では部下に稽古をつけられることを喜んでいるだろう。その姿はどことなく嬉しげに見える。
リオウとフィスに視線をやると、二人して微笑みかけてくれた。リオウは大人びた穏やかさで、フィスは無邪気に心から溢れるような笑みだった。これだけで二人の性格が知れるようだ。
「エンナ、この前の戦闘では大活躍だったね!」
フィスが弾けるような陽気さでエンナを称える。突然エンナの頭を抱えると、わしゃわしゃと撫でた。乱暴ながらも親しみのこもった振る舞いだった。
「やめてください、フィスさん!」
気恥ずかしくなったエンナはなんとかフィスの拘束から抜け出そうとするか、なかなかの力で抱えられていて逃げることができない。
見かねたウォルスが嘆息しながら助け船を出す。
「フィス、放してやれ。それからこの度の戦闘でエンナがした単独行動は褒められたものではない。安易なことを言って勘違いさせるな」
「えー、でも実際のところエンナの活躍がなければあの天魔を撃退できていなかったと思いますよ」
渋々といった様子でエンナを解放したフィスは不満げだ。
「それとこれとは話が別だ」
ウォルスは言い切る。