「ばか。いきなり呷るやつがあるか。まずは口に含むようにして、ゆっくり味わってみろ」
「そういうもんなのか?」
ほら、と容赦なく酒壺を差し向けてくるものだから、疑惑の眼差しを向けながらもおずおずと杯を差しだした。
再び注がれた酒を睨みつける。意を決しておそるおそると、今度はゆっくりと杯を口元へ持っていく。すると、先程は内側からの刺激としてしか感じなかった芳醇な香りが鼻をくすぐった。
幾分か気分をよくしながら口をつけ、言われたとおり口に含むように微量の酒を流し込んだ。舌の上で転がすように味わうと、ゆっくりと深みのある香り広がり、その奥にある爽快な甘みを感じた。こくりと喉を鳴らすように飲み下すと、先程は業火のようにすら感じた熱が、今度は仄かな陽光のように胃の腑を暖かめてくれるような心地よさがあった。
「美味いだろう?」
「わるくない……」
「そうか」
何が嬉しいのか、アンガスの声は喜びに弾んでいる。
アンガスの杯が空になっていることに気付いたエンナが、無言で酒壺を手にとって、顔も合わせぬまま突き出すと、アンガスはなおさら愉快げに酌を受けた。
何杯か飲むうちに指先までじんわりと温まり、僅かに頭がぼんやりと浮かぶような感覚に襲われた。
「おまえもおまえで生き辛そうだよなぁ」
唐突にアンガスが言った。
「なんだよ急に」
「いやさ、おまえ多少後ろ向きなところは鼻につくけど、基本人当たりは良いだろう? 国を守る精鋭である天駆であり、腕も立つ。女王の姉と国内随一の実力を持つ師匠を持ち、今日の様子を見る限り、他の天駆からの評価も悪くないときた。一見すると順風満帆な人生だ。なのに本人はこの世の終わりのような面で辛気くさい雰囲気を振りまく」
褒めているのか貶しているのかもよくわからない散々な物言いだった。
「随分だな。……俺にだっていろいろあるんだ」
「いろいろねぇ。おまえ、生まれはこの国じゃないだろう」
当たり前のように放たれた言葉にエンナは目を瞠って驚いた。
「どうして……」
「“エンナ“ってのは大地に生きる民の言葉だ。空の上で耳にすることはそうない」
「それだけか?」
「大地の民と空の民は、遙か古に袂を別った根本を同じとする部族だが、長い月日の中で肉体構造に多少の変化が現れている。魔導具の発展に成功した空の民はそれに頼るようになり、魔力の扱いが下手くそになった。おまえが天駆としてずば抜けた力を持っているのは、おまえの努力もさることながら、その血筋によるところも大きい」
「ヒトは空に生きることで弱くなった?」
「ものは言いようだ。大地の民は空の民のように魔導具を器用に扱うことはできないだろうさ。おまえは大地の血筋で、空の利器の扱いを覚えた特殊な例ってことだな」
器用貧乏とも言うな、とアンガスはからからと一人で笑っている。それを呆れたように横目にしながらエンナは杯を傾ける。
「で、どういう経緯でここに?」
歯に衣着せない物言いに、エンナは嘆息するしかない。それでも今はこの無遠慮さが妙に心地よいのだった。
「昔のことは覚えていない。赤子の頃に姉さんに拾われた」
「ふぅん」
いかにも適当な相づちだったが、しっかり話を聞いてくれていることは分かった。酒のせいか、いつもより口が軽いエンナも構わず続ける。
「血まみれの狼獣がキウォールに現れたらしい。魔導具を不器用ながらも扱って陣を張る獣に、誰もが驚いたそうだ」
「そりゃあ驚くだろうよ。狼獣自体、見たのも初めてだったんじゃねぇか?」
「みたいだな。アイオンを見て驚くヒトも未だにいるくらいだからな」
それくらい大地の獣が空にいることは珍しいことだった。そんなものが突然血まみれで現れたのだから、居合わせた者の驚きも並大抵ではなかったはずだ。
「それで、その背の籠に乗せられてたのが赤子の俺とアイオンだった。そこに何故か居合わせた姉さんが、恐れおののく者たちの脇を平然と抜けて、狼獣から俺たちを受け取ったらしい」
「平然とって、そのころのフィオナさんって……」
「十歳くらいだったらしい」
「……大したもんだ」
「子供の向こう見ずと言えばそれまでだが、今の姉さんを見るにそうじゃないだろうな。ほんとに凄いヒトだよ姉さんは」
当時護衛に付いていた天駆も呆気にとられたらしいから、フィオナの資質はやはり常人のそれとは違うようだ。
「それで拾われたおまえとしては感謝の念が強すぎて後ろめたいってか。おまえは自分の出生をいつ知ったんだ?」
「よく覚えていないが、五つか六つくらいの頃だな」
「また随分と早くに聞かされたな。フィオナさんも思い切ったもんだ」
「いや、自分で気付いた。姉さんに詰め寄ったら、しぶしぶ話してくれたよ。あのときの姉さんのうろたえ様は今でも覚えてるよ。ガキだったとはいえ、姉さんには悪いことをした」
しみじみと思い出に浸るエンナに、今度はアンガスが呆れた眼差しを向ける。
「やっぱりおまえも大概おかしいよな。普通、そんな年で感付かねぇよ」
「まあ、狼獣であるアイオンの存在もあったしな」
「それにしてもだよ。……でもそうか。おまえのそのうざったい性格にはそういう由来があるんだな」
「うるさい。余計なお世話だ」
怒るエンナにも構わずアンガスが杯を突き出すものだから、エンナはしぶしぶ注いでやる。酒壺の中身はいつの間にか残り僅かになっている。話しているうちに随分と飲んでいたようだ。
「“エンナ“って名前は誰が?」
「籠の中に入っていた紙切れに書いてあったらしい」
「そっか。にしても、“エンナ”ってのは皮肉が効いてるな。“羽根のない者”が大地から空にやってきたわけだ」
「イーファは“羽根のある者”と言ってくれたぞ?」
“幻想の羽根”を意味する“エンナ”を、兄は“羽根のない者”と呼び、妹は“羽根のある者”と呼んだ。果たしてどちらが正しいのかはエンナにも分からなかった。
「どっちも同じようなもんだ」
「全然違うだろう。真逆だ」
「おまえら天駆が空を走ることができるのは羽根がなかったからだろう? だから同じだよ」
言い得て妙だったが、妙にしっくりくるものがあった。
「まあ、生まれがどうあれ、やることは変わりないさ。俺は天駆として国と、なにより姉さんを守るだけだ」
「そういう独りよがりなのがおまえの悪いところだと思うぜ? 律儀だかなんだか知らないが、誰にも甘えようとしないから、逆に周りの奴等に心配をかける」
「なんとかなるさ。俺も今のままでいいとは思っていない。なんとかしてみせる」
「だからそれが悪いって言ってんだよ。手始めに、イーファに甘えて見ろ。あいつはきっとおまえの隣にいてくれる」
しかりつけるようにアンガスが言う。手酌し、それから空になったエンナの盃にも酌をする。最後の一滴を注ぎ終えると、酒壺を手荒に置いて、並々になった盃をずいとエンナに突きつけた。
「俺が死んだ後はおまえにイーファをまかせる」
しみじみとそんなことを口にする。自らの死を当然のように語る口調にむっとするエンナに対し、本人はいったって満足げだった。だからエンナは盃を受け取らない。
問いただすには今しかないと思った。
「……おまえさ、ほんとうは悪の生き物なんかじゃないだろ」
確信的でありながら、それ故に口にできなかった言葉を、満を持して言い放った。言い切って、ちらりと隣を見やる。心臓の音がうるさく響いていた。
なのに、
「ああ、その通りだ」
アンガスはあろうことか、ふわりと笑んで見せた。
「おまえなぁ。よくもまあ、いけしゃあしゃあと……」
その表情に一気に毒気を抜かれたエンナは、呆れるばかりだ。
「おまえは勘が良いからな。いつかは気付かれると思っていた」
「俺が気付くのも織り込み済みってことか」
「さあ? それはおまえがどこまで理解しているかによるな」
見透かしたように、そして試すようにアンガスはエンナの返答を待っている。
エンナは嘆息する。
「残念ながら、おそらく全部わかったよ」
「なら、俺の勝ちだ。俺の示す道が最善だと、おまえなら分かっちまうはずだからな」
勝ち誇るアンガスに、エンナは思い通りにさせてたまるかという対抗意識を燃やす。エンナには珍しい傾向と言えた。
(こいつとイーファに出会ってから、自分が自分じゃないみたいだ)
エンナは差し出されたままだった盃を受け取ると、改まったようにアンガスに向かい合った。そのあまりに真剣な顔にアンガスも居住まいを正す。
エンナは自らの胸中を伝える言葉を探し、そんな言葉は無いのかも知れないと諦めた。それでも、ほんのわずかでもこの思いが伝わればと、意を決して思いつくままに口を開いた。
「俺は……おまえを助けるとイーファと約束した。だから、おまえの思惑通りにはさせない」
言い切って一息に盃を傾けた。
アンガスは不適に笑んで、同じように盃を空にする。
「受けて立つよ。やって見ろってんだ」
火照った肌に夜風が心地よかった。二人して言いたいことを口にして、それぞれの決意を新たにしていた。
「悔いのないように最善を尽くそうぜ」
「ああ」
進む道は違っていても、目指しているところはきっと同じと信じた。この道の先にはきっと幸福な未来が広がっていると願ってやまない。