「さぁ、行くかアイオン」
気付かぬうちに口の端をつり上げながら、戦場を見据えた。
エンナの言葉に応えてアイオンが動く。獣の脚力を存分に使い、足場にしていた陣から大きく踏み出した。左前脚に装着した腕輪型の魔導具がアースブルーの光を放つ。その身体が大地に引き寄せられる前に、アイオンは次なる陣を展開する。形成した陣を踏み切り、さらにもう一歩。続々と陣をつくって空を駆ける。
天駆たちと彼らの陣との隙間を力強くも器用に駆け抜けて、一瞬のうちに天魔のもとにたどり着いた。
エンナはアイオンの鞍に提げられた剣の魔武器を一つ握り、魔力を込めた。魔力を使ったことで再びエンナの胸元で二つの呼応石がいっそうのアースブルーの輝きを放つ。戦いの始まりを告げる瞬きだった。
エンナの魔力に反応して魔武器を納めていた鞘の安全装置が外される。落下防止に掛けられていた錠がカチ、という音と共に解放されたのを確認するまでもなく、エンナはアイオンの背を蹴って跳んでいた。その勢いで抜剣して大空に躍り出た。
一瞬の浮遊感に身をまかせ、すぐさま落下が始まる。目標は天魔の背だ。
風を感じながらの落下に心躍らせる。羽根を持たない人は飛べないが、それでも空を駆けることができる。空に落ちていくことができる。
視界に広がる青空と白い雲。頬に感じる心地よい風。鼻を抜ける空の匂い。
なんと素晴らしいことだろうと思った。
見事に天魔の背に飛び乗った。着地の瞬間に膝を曲げ、全身をしならせることで勢いを殺している。
漆黒の鱗がまるで金属のように硬いのを踏みつけた感触で知る。
(これはむやみに斬ってもしょうがねえなぁ……)
戦闘の興奮を覚えながらも、エンナの思考は冷静にして沈着だった。
視野を広げ観察し、状況を把握する。そのくせ基本的には恵まれた反射神経に飽かせた動きをするのがエンナの戦い方だ。冷めやった思考と、それと共存する戦いへの熱量こそエンナの強さの所以だった。
一瞬にして斬撃の線を脳裏に浮かべ、視界にある天魔の身体にそれを重ねた。
斬った。鱗の隙間を、刃が滑るように走った。たしかな手応えがあった。
天魔が悲痛なる叫喚をあげる。耳をふさぎたくなるほどの大気の震えにエンナは顔をしかめるが、それどころではない。
「うおっ!?」
急滑空。一瞬身体が浮き上がり、それに体勢を崩す。しかし無理に立て直すことはせずに、流れに身をまかせる。
天魔の巨体と一緒にほとんど平行落下しながら、もはや黒い壁と化した躯の上を駆ける。そうしながら隙を見ては切り刻む。
その体格差故に、大した傷を負わせることはできないが、確実に小さな傷を積んでいくのだ。
視界の端に異物を捉えた。危険信号が全身を駆けて総毛立つ。反射的に天魔の躯を蹴り、迷うことなく大空に離脱した。
数瞬前までエンナのいたところに天魔の尾が鞭のようにしなって通り過ぎていった。そのときにはエンナはすでに天魔の躯全体が視界に収まる位置まで離れてしまっている。
空中に身を委ねたまま、左の掌を天魔に向けた。指輪型の魔導具が、人差し指でアースブルーの光を湛える。天駆が身につけるあらゆる装飾品は、呼応石を筆頭に、国を守護する者を彩るものでありながら、同時にそのほとんどが魔導具であった。
今エンナが発動する魔導具は陣を形成するためのものだ。陣の持続時間こそ短いものの、形成までの距離、そして面積の大きさが極めて優秀な逸品だ。
天魔の進行方向に巨大な陣が現れて壁となる。アースブルーの演算式に天魔は激しくぶつかり、その身をひしゃげさせる。
この機を逃す手はない。
アイオンが駆けてくる。その背に着地する。天魔に向かう。
距離が縮まったところでもう一度、陣を展開しにかかる。今度は右手の薬指の魔導具を発動させる。先ほどのものより発動距離が短く、面積も小さいが、発動数と持続時間に優れた魔導具だった。
見る間に小さな陣たちが天魔の身体を捕らえるように取り囲む。それら一つ一つが楔だった。
座標を固定された陣にその身を捕らえられ、動けなくなった天魔が咆哮する。
「そう吼えんなよ。今すぐ、叩き斬ってやる」
そこに突撃しようと、アイオンの鞍から大剣を引き抜こうとしたときだ。
「待てエンナ!」
良く通るウォルスの声が聞こえた。
エンナが指示するまでもなくアイオンが急停止する。エンナは掴んでいた大剣の柄を放し、代わりに銃を抜いた。威力重視の武骨なその銃を、捕縛した天魔に差し向け、魔力を込めた。
「まったく……」
ウォルスに向けてごちた。好き勝手できないことへの苛立ちと、まだほんの少しだけ残ったチームプレイへの羨望が腹の中で渦巻いていた。
エンナの悪態をかき消すように、魔力が弾けて爆音が響いた。
銃声は一つではない。
四方八方から様々な色が瞬き、銃声が重なっている。天駆たちによる一斉の長距離砲撃だった。
天魔が一瞬にして爆煙に包まれ、誰もがその成果を見守った。
真っ先に異変を感じたのは、陣で天魔を縛っていたエンナだった。硝子の割れるような乾いた破砕音が響いた。陣が破壊されたのを指輪の魔導具を介して感じる。
「来るぞ!」
叫んだ瞬間だった。煙を突き破って、凄まじい勢いで天魔がその姿を現した。
不意を突かれた天駆が何人か体当たりを受けて、天狼の背から落とされた。
先ほどまでの動きとは桁違いの敏捷と力強さで天魔が飛ぶ。それを再度捕らえようと、色とりどりの陣が天駆達によって展開されるが、黒い巨体の軌跡に尾を引くのみで捕らえることができない。
嵐のごとき羽ばたきに巻き込まれ、すれ違いざまに身体をぶつけられ、あるいは悪なる爪と牙に引き裂かれて天駆たちが続々とやられていく。
一瞬にして戦場が混乱に陥った。
それでも逃げ出す者が現れなかったのは、流石に精鋭たるチームを集めただけはあった。しかし、もはや有効な攻撃を行うには至らない。自力で劣る人が連携を失って勝てるはずもなかった。
ここまでかと誰もが思ったとき、天災さながらに暴れ回っていた天魔が突如として戦場から離脱するように上空へ飛んだ。その目はすでに天駆たちを見てはおらず、こちらへの興味を失ったかのように見えた。