「いっしょに堕ちようぜ、アンガス」
世界が一転した。上下左右、すべての方向感覚が失われるほどの衝撃に、アンガスとエンナは互いにぶつかりもみくちゃになりながら身体を踊らせた。
球体に創り上げた箱の陣の位相付けをエンナが解いたのだ。ただの箱と化した陣が、二人を取り込んだまま、重力にしたがって落下していた。
「このやろォ、無茶苦茶しやがってっ!」
混乱の最中にアンガスの焦った声が聞こえた。
落下を続けるにつれて、身体に奔る魔力の本流が苛烈になっていくのを感じた。
身体中を打ち付けながらもなんとか受け身を取りながらやり過ごすエンナに対し、アンガスは箱の落下速度と自身の落下速度を同調させて難を逃れようとしている。
「させるかっ!」
エンナは文字通り捨て身になってアンガスに身体をぶつけた。箱の天井に二人してぶつかり、更なる混乱に陥った。
いい加減目が回り始め、時間感覚すら失いかけたころ、
「ああッ、鬱陶しい!」
痺れを切らせたアンガスが無造作に拳を振るった。
一回、二回と空を切った拳が三度目にして陣の壁をかすめた。陣に、亀裂が入る。
(頃合いか?)
なおも暴れ回るアンガスをなんとか視界に押さえながら、エンナは意を決して自ら陣を解いた。
箱から放り出され、一気に視界が開ける。
ぐるぐる回る視界に、一瞬自らの状況を理解することのできなかったエンナだが、天性の平衡感覚ですぐさま体勢を整える。
すでに落下限界を超えていた。陣を張って着地するのは不可能な状況だった。
少し離れた位置にアンガスが落下しているのを見つける。同様にこちらに気付いたアンガスが、滑空しながら向かってくる。
(まだだ、もう少し……!)
間近に接近したアンガスの腕を掴み、後ろに投げ気味にそらす。すぐさまアンガスが振り向き、攻撃の態勢に入る。
「少し早いが、しょうがない」
足下に陣張って、そこに片足をかけ、落下を制動した。
「なっ!?」
アンガスの驚愕を置き去りにして、一瞬にしてふたりの距離が広がった。
陣にかけた脚が悲鳴を上げる。落ちていくアンガスを見下ろしながらエンナは痛みに顔をしかめた。
(もっとだ。もっともっと堕ちろ……!)
再度、その身を宙に放り投げる。
高度が下がるにつれて、全身を魔力が駆けて力が満ちてくる。羽根のない生き物は大地に近づくほど魔力の扱いが容易くなる。それを利用するのだ。
落下しながら上空に陣を張り、それを足蹴にして真下に跳んだ。
「ーーらぁ!」
アンガスに追いつき、身体を反転させて蹴り降ろす。
何とか腕で防いだアンガスをそのままはじき飛ばし、更に下降させる。自分はまた陣を張り、それを踏み台にして更に加速して追いつく。追いついてまた大地に向かってアンガスを 弾き飛ばす。それを繰り返した。
アンガスはなんとか直撃を避けながらエンナの攻撃を防いではいるが、反撃に出ることはできなかった。
ついに大地が見えた。どこまでも岩肌の広がる山岳地帯だ。みるみるそれが迫ってくる。
エンナは臆することなく地面に向けて、仕上げとばかりにアンガスを殴り飛ばした。
凄まじい勢いで地面に激突したアンガスは二度三度と跳ねた後、滞空することでなんとか体勢を整える。
一方でエンナは陣を張ることもなく直接着地する。全身に魔力を奔らせ、極限までに耐久力を高めていた。
かつてないほど身体が軽かった。羽根のない生き物の本領発揮と言えた。
岩盤を砕きながら着地し、そのまま踏み抜いてアンガスに向かった。
「ここが俺たち(羽根のない生き物)の舞台だ。……残念ながらな」
アンガスの頬を地面に向かって殴りつける。その身体が跳ね返ってきたところを蹴り上げる。飛ばされる先に回り込み、天井の陣を張って着地して待ち受けた。
アンガスが来たところで体重をのせた蹴りを腹に入れた。
いともたやすくアンガスの身体がはじけ飛び、地面を滑るように跳ね飛んでいく。
それを滑走して追撃する。並走し、首を掴んで慣性に任せて地面に押さえ込む。
地が割れ、アンガスの身体が埋まるようにしながら滑っていき、やがて止まった。
静寂のとばりが二人を包み込んだ。聞こえるのは、互いの荒れた呼吸だけだ。
エンナはアンガスの首を掴んだまま、顔の真横に向けて拳を振り下ろした。
極限まで高められた魔力の本流が身体を強化し、異常なまでの力を発揮した。大地が割れ、轟音が虚空に響いた。
二人の身体が大地に沈んだ。
前髪に隠れたアンガスの表情を窺うことはできない。
ただその唇が、さも嬉しげな弧を描いた。
「おまえの勝ちだ。エンナ」
なんと満足げな声音だろうか。
エンナは下唇を噛み、そして大きく息を吸った。
「あぁ! 俺の勝ちだ、アンガス!」
言い切って、二人してまた黙り込んだ。肩で息をしながら、かつてない近さでただ互いに見つめ合った。
「……アンガス、俺にはわからない。お前が正しいのかどうか。ほんとうにお前はっ……!」
「この甘ちゃんが。ここにきてまだ言うか」
眉根を寄せ、アンガスは呆れたように吐息する。そして一度瞼を閉じ、またそっと開いた。その大空の瞳に、エンナは自らの姿を見た。今にも泣き出しそうな情けない顔だったが、同時に決意に満ちたおもむきを孕んでいる。
アンガスはその真意を感じ取ったのか、極めて穏やかに口を開く。
「エンナ、俺はおまえやイーファが羨ましかった。イーファは悪たるが故に正義為すことを望み、おまえは羽根がないが故に自由に空に在ることを望んだ」
悪の生き物はイーファであり、アンガスは正義の生き物だった。アンガスはイーファを守ろうと、自らの命すら厭わない覚悟だった。
どこまでも深い瞳が、遠くを見つめている。果たして今なにを思うのだろうか。なんとなくわかる気がした。羨望することを救いとし、まさしく自らの意志でそれを守った男の瞳だった。
ふっとその瞳が、またエンナを見上げた。
「俺にはなにもないんだ」
自嘲するような口調は、初めて出会った頃のアンガスを思い出させた。
(あぁ、そうか。これがアンガスの……)
すっと合点するものがあった。途端に鼻の奥がつんとなった。果たしてエンナの感情を揺さぶるのは何だろうか。上手く言葉にすることはできなくても、たしかにそれはエンナのなかにある。
「イーファがいる。ーー俺だっている」
呟くように、口の中で転がすように言った。
アンガスは一層幸福に満ちた笑みを浮かべる。
「ありがとう。その通りだ。だから、イーファの未来のために死なせてくれ。……そしてきっと、それはおまえのためにもなるだろう」
穏やかにそう口にするアンガスの目尻から一筋の涙が伝う。
「頼むよ親友」
込み上げる涙をこらえることもしなかった。エンナも涙し、頬を流れた雫が、ぽつりとアンガスの頬に落ちる。
「エンナ!! アンガスっ……!!」
遠くからイーファの声が降ってきた。