見上げるとイーファとアイオンがこちらに向かってきているところだった。エンナとアンガスから少し離れた場所に降り、そのまま駆け寄ろうと踏み出した足をふと止め、まっすぐにこちらを見た。
アンガスもまた、エンナを見つめた。
「エンナ、今しかない。俺はあいつの目の前で死ななければならない」
イーファに聞こえぬよう抑えた、しかし力強い声音でアンガスは言った。懇願にも似た言葉だった。
しかしエンナの心はもう決まっている。掴んでいた首を手放し、アンガスの脇に屹然として立った。
視線を絡める。口にすべき言葉はひとつだ。
「俺を信じてくれ親友」
目を瞠って何か口にしようとしたアンガスを遮るように、エンナは大きく息を吸った。
視線の先には、不安に落しつぶされそうになりながらも、健気にこちらを見守る少女の姿がある。地に足を着けた大空の少女はいつにも増して儚い美しさで佇んでいた。
(綺麗だな)
あらためてそう思いながら、
「イーファ!」
祈るように声を張り上げた。
「俺はアンガスを殺さない!」
一瞬の間を置いて、イーファの面に僅かに喜色が浮かぶが、エンナは努めて厳しい声でそれを諫めなければならなかった。
「そもそも悪とは何だ? 悪事成すことを悪とするか? ならばアンガスはそれに当てはまらない」
「それは……わたしもアンガスも人の形をとっているから、本性が表に出ていないからですよね? だから、それが表に出てくる前にアンガスは……」
突然の謂いにイーファが戸惑った様子を見せるが、律儀にも応える。
「ああ。きっとそれも事実だろう。しかしそれが全てではない。人が本性のままに生きないのは、理性があるからだ。本性を理性で隠しながら、俺たちは生きている」
「本性と理性……」
「そう考えると、人の本質は皆、悪であるとも言える。だれもが悪成そうとする弱い本性を、自らの意志である理性で押さえ込んでいるんだ」
「何が……言いたいんですか?」
イーファの声が震えていた。勘の良さから本能的に感じているのかもしれない。
エンナは構わず続ける。喉がからからだった。心臓の音がうるさかった。言葉を間違えてはいけない。
「大小あるにしても人の本質を悪とするのなら、果たして正義を本質とする人とはなんだ? 理性で押さえ込むべき本性を持たぬ人とは?」
「エンナ……」
「断言しよう。アンガスは悪の生き物ではない」
イーファは目を瞠ったと同時に、握り拳を胸元に持っていき、震えながらも微笑んだ。安堵と、そして恐怖の入り交じった感情が生んだ表情だった。
エンナは心を締め付けられる思いだった。しかし続けなければならない。
「ある種無邪気とも呼べるアンガスの言動は悪のそれではなく、悪を知らぬ本性からのものだ。ーーアンガスは正義の生き物だ」
一呼吸置いて一歩だけイーファに歩み寄った。今すぐ駆け寄りたい衝動に駆られるが、今これ以上近づくことはできない。
「イーファ。あんたは羽根のある生き物だ。それは間違いない。ならばあんたも正義と悪に分類されるな?」
当然のことを確認するように問う。イーファは俯いてしまい、なにも応えなかった。
「あんたは僅かにも悪の感情を持ったことがないと言えるか? 嫉妬、怒り、自尊、あらゆる心の弱さを感じたことがないと」
「エンナ、わたしは……」
顔を上げたイーファがすがるようにエンナを見た。
エンナは表情を変えない。そして突き放すべく言葉を紡がなくてはならない。生唾を飲み込み、必死に唇を動かした。
「アンガスは正義の生き物だ。そしてイーファ、羽根のある生き物でありながら弱い心を持つあんたこそ、悪の生き物だ」
言い切った。
その瞬間、イーファは表情を崩して涙を浮かべ、その身をかき抱くように崩れ落ちてしまった。へたりこみ、かたかたと震えている。
「……アンガスは、あんたが弱い心に負け、悪を暴走させぬよう自分が悪として死のうとしていた。長年連れ添った兄の死を乗り越えればこの先、どんなことがあっても大丈夫だと信じた」
そしてそのためにエンナが必要だった。
「そして、兄を殺した者への怒りすら乗り越えさせようとした。怒りを復讐心へと昇華させることなく、理性、正義の心であんたが乗り越えることを望んだ」
そのために、アンガスを殺す者は、アンガスと同等かそれ以上にイーファに好かれた者であり、且つアンガスの死は正義の上になければならなかった。
すべてはアンガスの思惑のなかだった。緻密に練られた思惑の中で、エンナはイーファの目の前でアンガスを殺し、イーファはそれを乗り越えるはずだったのだ。
「もう一度言う」
もうやめろ、これ以上追い詰める必要があるのか。胸を刺すような苦悩があったが、揺れる心を振り切ってエンナは再度口にしなければならない。試練を与えることでイーファの幸せを願ったアンガスの思いを、今は自分が引き継がなければならなかった。
「イーファ。あんたが悪の生き物だ」
「…………」
イーファは応えない。
しばらく間があって、イーファがゆっくりと顔を上げた。大空の瞳を揺らしながら、エンナに向かって手を差し出した。
歯噛みした。今はまだ、その手を取るわけにはいかなかった。
「俺は助けてやれない。これからどうするかを決めるのはあんただ」
淡々と言った。