イーファは伸ばした手をびくりと止めた。そしてその手を引っ込めると、よろよろと立ち上がってそのままエンナに背を向けてしまった。おぼつかない足取りで、ゆっくりと駆け出す。
心配げに歩み寄ってきたアイオンの脇を通り過ぎると、そのまま飛び去ってしまった。
小さくなっていく少女の背を見送りながら、エンナは大きく息を吐いた。緊張の糸が解け、仰向けに横たわるアンガスの隣に座り込んでしまった。
「やってくれたな、エンナ」
アンガスが顔だけこちらに向け、非難するような視線を注いでいた。
「どういう結果になるかわからないが、おまえの望んだやり方だろ? イーファは今、悪の心と戦っている」
「ばかが。俺のやり方なら確実にあいつを助けてやれたんだ」
「おまえの命と引き替えにな。俺はおまえに生きていて欲しい」
「……気持ち悪いこと言うな」
アンガスはそっぽ向いてしまう。こんな状況にも関わらず、その姿が可笑しくて小さく吹き出してしまった。
「……イーファが羨ましかったんだ」
顔を背けたままアンガスが呟いた。
「あぁ」
「悪の心……弱い心を持ちながらも、必死に抗う姿が眩しかった」
「そうだな」
「俺にはないものだ。俺は、ただただお気楽に生きるだけ。それが嫌だった。嫌だったから、イーファにすがった。イーファを見守ることが俺の役目だと勝手に決めた」
「まあ、兄貴だからな。間違ってねぇよ」
「誰よりもまっすぐに生きているあいつの側にいられることが、俺の生きる意味だった」
「うん」
「ある日、イーファが暴走したんだ。人付き合いとは無縁だった俺たちが、初めて人に触れたことがある。ある家族の一員になった。そこでイーファは親友を得た」
懐かしむようにアンガスは言葉をこぼす。
「その親友が、天魔に殺された」
「……そうか」
「そのときだ。イーファは我を忘れたように力を振るい、俺さえ凌駕する力でその天魔を葬った。……幸いと言うべきか、そのことをあいつは覚えていない」
「しかし、近しい者を失えば、大抵の人は平静ではいられないものだろう? イーファが怒りを露わにしたのも仕方のないことだ」
「そうかもしれない。でも、イーファのあれはそんなものじゃない。親友の家族や、俺さえも見境なく攻撃した」
「……」
「俺は思った。イーファを汚いものに触れさせてはいけないと。イーファの悪の心を暴走させてはならないと。それから俺たちは一切の関係を断ち切り、二人だけで生きてきた。あいつはしきりに他者との繋がりを望んだが、俺は許さなかった」
アンガスが大空を見上げた。その表情は意外にも晴れやかだった。
「何者も生まない、虚しい時を二人で過ごした。俺は悩んだ。このまま虚無を抱えたまま、二人きりでいつまでも過ごすのかと」
アンガスがエンナに顔を向けた。穏やかな顔だった。
「そんなときだ。エンナ、おまえと出会った。最初はなんだこいつと思ったよ。天駆とはいえ、おおよそ人のいるべきでない高度で、それもたった一人で闘ってんだもんよ」
懐かしむようにアンガスは瞼を閉じる。そしてまた、大空の瞳をエンナに向けた。エンナは、胸の底で温かなものを感じた。
「あのとき、おまえを助ける義理はなかった。人との繋がりなんて望んでなかったからな」
「……でも、俺はおまえたちに救われた」
「あぁ。イーファが勝手に飛び出したんだ。俺は仕方なしに付き合っただけだった。……でも、おまえを見ていて気が変わった。俺は俺の意志でおまえを助けたんだ」
「どうして気が変わったんだ?」
問うと、なんとアンガスはくつくつと笑んで見せた。
「なんだよ?」
むっとしてエンナはアンガスをねめつける。
「いや、あのときのおまえを思い出した。おまえ、泣きそうな顔してたぜ?」
エンナを見つめるアンガスの視線が、いかにも温かな柔らかさに充ち満ちた。
「あぁ、こいつも必死に生きてんだな、って思ったら、どうしようもなくおまえが羨ましくなった。こんな感情にさせられたのは、イーファとおまえだけだよ。だから、こいつにならイーファをまかせてもいいじゃないかと思ったんだ。幸いなことに、イーファもおまえのことを気に入ったようだったしな」
「……身勝手な話だ」
エンナが悪態付くと、アンガスは笑みを深めた。
「そう言うなよ。命を救ってやったのは確かだろ? それにおまえ、あいつに惚れてんだろ?」
唐突な問いかけに、エンナは一瞬悩むような素振りを見せ、まあ誤魔化すこともないかという結論に自然とたどり着いった。
「あぁ。あいつが好きだよ」
「くくっ。はっきり言うかよ。恥ずかしい奴め」
「まぁ、おまえのことも憎からず思ってるよ」
言ってやると、アンガスが驚きを浮かべた。そしてまた意地悪げな表情になる。
「おまえなぁ、そこは“おまえのことも好きだぜ”くらい言っとけよ」
エンナは露骨に嫌な顔をしてみせた。
「おまえも相当恥ずかしい奴だぞ、ほんとに。気色悪い」
「エンナー愛してるぜー」
「はいはい、俺もだよ」
言い合って、二人して笑った。しばらくそうした後、沈黙した。
「あいつは、イーファは大丈夫だと思うか?」
一転して真面目な顔でアンガスが言った。
エンナは当然とばかりに余裕ある態度を崩さなかった。愛する少女への絶対的な信頼がそうさせていた。
「大丈夫に決まってるだろう。おまえの妹だぜ?」
「そんで、おまえの想い人だしな」
アンガスもある種、信頼に満ちた態度を示し、そしてふと思い立ったように声を上げた。
「ていうかおまえ! はやくイーファを追えよ! 見失うぞ!」
「今更かよ……。もうとっくに影も形もないよ」
「なっ!? どうすんだよ!」
慌てるアンガスに対し、エンナは至って平静だった。
胸元の呼応石をつまみあげると、ひけらかすようにおアンガスに見せつけた。
「こいつがある限り、おれとあいつは離れられない」
「んなもん、捨てられたら終わりだろうが!」
「あいつはそんなことをしない。絶対にだ」
根拠もなく言い張エンナに、アンガスは呆れたような顔をした。そしていたって真摯な態度でエンナを見上げた。
「おまえなら、あいつを助けてやれる。改めて、妹を頼む」
「悪いが選ぶのはあいつだよ。俺はどうやったってあいつにはなれないからな。……俺にできるのはあいつが選択する瞬間、側にいてやることだけだ」
「それで構わない。……俺は負けたしな。あとは託すよ」
「あぁ。祈っててくれ」
立ち上がり、歩み出す。
アイオンが不安げに喉を鳴らしながらすり寄ってきた。
「おまえもここで待っていてくれ。大丈夫、きっと上手くいく」
純白の毛並みを撫でてやりながら、イーファの飛び去っていった空を見上げた。
胸元で呼応石の光がこぼれ出す。この遙かなる空の先に、確かにイーファの存在を感じた。不安と戸惑い、そして寂しさ。呼応石を通してやってくるイーファの感情の波に、エンナまで流されてしまいそうだった。
「あんたは強い人だ、イーファ」
独り言のように呟くと、今は姿の見えぬイーファのいる場所に向けて、陣の階段を創り上げた。
一段目に足をかける。異様に重い一歩だった。それでも止まることなく、一歩、また一歩と確かな足取りで進んだ。