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沈みゆく太陽が、空を真っ赤に染めていた。そんな中に大空の少女は静かに浮遊していた。こちらに背を向け、夕日を眺めている彼女の表情を窺うことはできない。
真っ赤な世界に、大空の蒼を有するイーファの姿がぼんやりと浮かび上がっていた。
エンナはゆっくりと近づき、少し距離を置いて立ち止まった。手を伸ばせば触れられそうで、しかし絶対に届くことのない距離だった。
「綺麗ですね」
背を向けたままイーファが零した。意外にも、落ち着き払った声音だった。
「あぁ」
エンナは頷いただけで、それ以上なにも言わなかった。
「ふふ、もう少し何かないんですか、エンナ?」
イーファが振り向いた。ふありと宙に舞った大空の髪の一本一本が夕陽をはじいて輝いた。その瞳が涙を浮かべて不安に揺れている。形の良い唇が、自らを内側から鼓舞するための微笑を湛えている。手が、震えていた。
突然訪れた残酷な真実に、それでもこの少女は必死に立ち向かおうとしていた。
悪として生まれ、無意識ながらも正義で在ろうとしてきたこの少女こそ、誰よりも命を生きてきたのだと思わされた。
(あんたのほうがよっぽど綺麗だ)
柄にもない思いが浮かんだが、それを口にすることはしなかった。
「呼応石は、このときのためにくれたのですか?」
白く華奢な手が胸元で輝く呼応石をぎゅうと握りしめた。指の隙間から光がこぼれだしている。
「それもある」
「少しは否定して下さいよ。“おまえが大切な仲間だからだ”とか、嘘でもいいから言って下さいよ。でないとわたし……」
声が震えていた。すがるように一層強く呼応石を握りしめる少女の姿に、エンナは胸が締め付けられるようだった。今すぐこのもどかしい距離を埋め、抱きしめてやれたらと思った。
イーファに悟られぬよう平静を装いながら、感情を抑え込んだ。
それに気付いているのかいないのか、イーファは寂しげに瞳を伏せた。
「まあ、そんな気はしてましたけど」
平淡な声音に、ずきりと心が痛んだ。いつものような優しさに満ちた声を向けて欲しいという身勝手な欲望が生まれ、それを必死にひた隠しにする。
「それでも捨てないでいてくれたんだな、呼応石」
「ばか。捨てられるわけないじゃないですか。……わたしの宝物です」
イーファがまっすぐにエンナを見つめた。
「エンナ、あなたが好きですよ」
「俺もイーファが好きだよ。……でも、あんたのその苦しみを共有してやることはできない」
「ふふ、優しいように見えて、けっこう残酷ですよね、あなたは」
イーファは力なく笑む。
「……どうしたら良いんでしょうね、わたし。アンガスには悪の心に負けずに生きて欲しいなんて言っておいて、いざ自分の身に降りかかってみると、恐くて仕方ないです」
「イーファは、どうしたいんだ?」
「いなくなってしまいたい。誰もいないところで、誰にも知られないうちにーー死んでしまいたい」
淡々と言ったものだった。今イーファが、果たしてどんな胸中でいるかはエンナには分からない。それは想像するしかなく、決して届くことのないものだった。
予想し得た言葉だったが、想像以上に心を乱されていた。足場の陣が、突然頼りなく思われたのは何故だろうか。
「俺がいる。アンガスもいる。もうあんたは独りにはなれない」
祈りを込めて言った。そうすることしかできなかった。
イーファは泣くような笑みを浮かべる。
「ほんとに残酷な人ですね。わたしも、あなたやアンガスとずっと一緒にいたい。でもいつか、あなたたちを傷つけてしまう日が来るかもしれないと思うと、生きるのが恐くなってしまいます」
「……」
「エンナ。わたしといっしょに行きませんか? わたしとあなたと、そしてアンガスと。三人で生きていきましょうよ。そうすればわたしはずっと真っ白な心のままでいられます」
すがるようでありながら、口にしているイーファ自身、それが夢物語でしかないことをきっと分かっているのだろう。イーファの声はどこまでも虚空に溶けていった。
「俺はキウォールの天駆だ。俺はあそこで生きる」
「そう……です、よね」
イーファは力なく俯いてしまう。かと思うと再び顔を上げ、強がった笑顔を浮かべた。
「あはは、振られちゃいましたね。でも、ありがとうございます。はっきり言ってくれて。わたしは……」
言葉につまりながらも必死に強がる少女との隙間を埋める陣が張られた。エンナはその陣に踏みだし、イーファを引き寄せ、そのまま抱きしめた。
彼女の優しい匂いと温かな体温とを逃がさぬよう力を込める。
驚いたように身体を強張らせたイーファから、徐々に力が抜けていくのを感じた。浮遊を止め、エンナと同じ陣の上に足を着けた。おそるおそるエンナの背に回された手が、幼子のように力を込めた。
「このまま時間が止まって欲しいです」
「それは無理だな。時はいつだって流れてく」
「もう……またそういうことを言う」
「イーファ。俺はあんたと生きていきたい。俺とアンガスがいる。あんたならきっと大丈夫だ」
「確かに、あなたとアンガスの存在がわたしの支えです。でも、あなたとアンガスの隣は、わたしが最も弱くなる場所でもあります。二人を大切に思うほど、失うのが恐い」
エンナの胸元に顔を埋めたまま、イーファは震えた声で言う。エンナにしてやれることはいくつもない。それでもただ側にいてやることがイーファの力になると信じた。
空色の髪の上に手を置いた。穏やかな心持ちで、口元が緩んだのが自分でも分かった。
「生きるか死ぬか、あんたが選べ。俺はただその傍らにいる」
「エンナ……?」
イーファが腕の中で不思議そうこちらを見上げた瞬間だった。