エンナが、それを追うという選択をするのに迷いはなかった。そうすることが必然と思われていた。その意志を代行するように、アイオンが吼えた。上空に向けて足場となる陣を展開するや、凄まじい勢いで駆けだした。
その背に掴まって風を感じながら、エンナは天魔の後ろ姿を睨み付けている。逃がす気は毛頭なかった。
「エンナっ!!」
悲痛なウォルスの叫びに、迷いが生じかけたがすぐさま捨て去った。ここで止まることはできない。立ち止まることはなにより怖いことだ。
人や狼獣のように、本来大地に生きるべき“羽根のない生き物”は、空では魔力の扱いが極めて困難になる。それは高度を上げるほど顕著に現れる。対して、“羽根のある生き物”である天魔や天狼は高度が上がるほどに強くなるのだった。
エンナたちのいる今の高度が、天駆たちが陣を使ってまともに戦うことのできる境界だった。だから、これ以上の高みにまで天魔を追う者は、エンナを除いて他になかった。
光の群れを成す天駆の一団から、アースブルーの光がひとつ飛び出して遙かなる空へ向かう。それは行き場のない迷子のようでありながら、どこまでも愚直な感情ゆえの高進だった。
雲海に飛び込んだ天魔に続き、迷わずアイオンも後を追った。
一気に視界がなくなる。嫌な湿気が頬と髪を湿らせる。失った視界に代わって聴覚が冴え渡り、いつもより耳に障る風切り音が行く手を阻まんとした。それでも止まれない。右も左もわからないまま、ただただ進むだけだった。
どれくらい進んだだろうか。突然、光が広がった。雲海を抜けたのだ。
「なんだよ、これ……」
そこには、空の蒼を背景に大小様々な天魔が、数え切れないほどいた。その遙か後方で、一際大きな身体をした先ほどの天魔がこちらに視線を向けている。
「これ全部、天魔かよ」
意図せず乾いた笑みがこぼれた。これほど壮絶な光景を未だかつて目にしたことがなかった。
空を埋めるほどの天魔の軍団を前にして、さすがのアイオンも逡巡しているようだった。どうするか問うようにこちらを見上げてくるが、しかしその瞳に怯えは見られない。エンナの判断一つで迷うことなく、あそこに飛び込む覚悟があるに違いなかった。
なんとも心強い。少しだけ安堵した。たとえ独りであっても、アイオンがいてくれれば大丈夫だと思った。それほどに二人はひとつだった。
言葉を発する代わりにアイオンの首元を撫でてやる。滑らかな純白の毛並みが指の間をすり抜けていく。それだけで心は通う。
仕方ないなとでも言うようにアイオンが呻いた。エンナは超然として笑んだ。
示し合わせたかのようにアイオンが突っ込む。その背でエンナは大剣を手に取る。
天魔の群がうごめくようにして動いた。
最初の一体に到達する直前、エンナは納剣されたままの大剣に魔力を込めて錠を外す。すれ違いざまに抜剣し、天魔の羽根を狙って振り抜いた。切れ味よりは強度を優先してつくられた大剣ではあるが、エンナの手にかかれば業物と化す。斬撃の瞬間、滑らせるようにして刃に力を込めると、なんともあっけなく天魔は羽根をもがれた。
両断された羽根が宙に舞う。斬られた天魔が断末魔をあげながら落ちていく。さすがの天魔も片翼で飛ぶことは叶わず、必死に足掻くものの錐揉みしながら視界から消えていった。
気を抜いてはいけない。すでに次の天魔が迫っていた。
アイオンがそれに牙を向けた。勢いよく噛みつくや、天魔の動きを封じる。
エンナはその天魔の背に飛び移り、大剣を深く突き刺した。
天魔が息絶えるのを確認することもなく、すぐさま大剣を抜き放って跳んだ。その先にいた別の天魔を空中で切り伏せる。
足場となる陣を張るまでもない。数え切れないほどいる天魔たちそのものが足場だった。エンナは大剣を大きく振り回すことで体重移動して器用に空を舞いながら、続々と天魔を足蹴にしていく。
迫り来る天魔を次々と切り伏せた。そのたびに脳が痺れるような愉悦が湧いてくる。思考よりも行動が先行するのに、判断を誤ることは一切なく、いまやエンナは無我の頂にいた。
なんとも良い気分だった。この感情に溺れてはいけないと頭のどこかで思いながらも、止まることはできなかった。
何体斬ったか判らないほどに暴れたが、一向にして天魔の数は減らない。
誰よりも高い場所で戦うことに長けたエンナではあるが、通常よりも魔力の扱いが困難な状態で戦い続けるのには限界がある。
戦闘の高揚に身を委ねながらも、このままではいけないと無意識に感じていた。
「アイオン!」
アイオンの背に降り立つ。鞍の上に中腰で立つエンナを乗せたままアイオンは駆ける。数多いる天魔の隙間を縫っていく。
標的はあの巨大な天魔だ。体力が尽きる前にあれを倒しておく必要があった。他の雑魚などどうでもいい。あれだけは倒さねばならない敵だった。
天魔はエンナを待つように悠然と、ただそこにあった。
アイオンの脚力による慣性そのままに跳んだ。大剣を掲げ、愚直なまでにまっすぐ突っ込んだ。
天魔の腕が横薙ぎに振るわれる。ただそれだけのことが、小さな人にとっては命取りとなる。なんと不条理なことだろうか。
それすら面白いと思った。
大剣を片手で持ち直し、襲い来る攻撃の方向、自らの顔の真横に掌を向けた。掌に陣が展開された。アースブルーの輝きが、エンナを守る盾となる。
強固な陣に弾かれた天魔の腕が宙を泳いだ。
隙を見せた天魔を正面から斬った。見事なまでの斬撃が、硬質な鱗ごと叩き斬っている。
すぐさま足下に陣を張って大空に立った。着地した足を軸にして横に一回転し、そのまま再度斬りかかる。
天魔が叫んだ。エンナの耳をつんざき、身を震わせるはずの咆哮が、今やなんの恐怖をも孕んでいなかった。高揚で感覚が麻痺しているのか、あるいはただの開き直りか。しかし今はそんなことはどうでもいい。存分に戦うことのできる事実だけがあればよかった。
斬っては陣を張ってまた跳び、ある種舞うようにあらゆる角度から大剣を振った。それがことごとく天魔に届いていた。
だから気付かなかった。いつのまにか視野を狭めていたことに。ひとりで戦い続けてきたエンナが、当たり前のように行っていた防御と回避の余裕を犠牲にしてまで攻撃に重きを置いていたことに。
異音があった。金属のよじれる嫌な音とともに、これまでとは違う感触が柄越しに伝わった。斬撃の瞬間、天魔が僅かに身体をずらしたことにより、斬り損なったのだと気付くのにしばらくの時間を要した。それほどまでに思考を放棄していたことに今更気付いたが、もう手遅れだった。
天魔の赤い瞳に見られていた。感情の欠如したその視線に背筋が凍りついた。ここにきて、初めて恐怖してしまった。
赤い瞳の中に自らの姿が映るのを見た。泣きたくなどないのに、今にも泣き出しそうな表情に見えた。身体の芯から震えた。
一瞬の恐怖に身を縛られたエンナに向かって、天魔の巨きな顎が開かれた。吼えた。それが衝撃波となってエンナを襲った。
反応の遅れた隙を突かれ、叩き付けるような天魔の爪が迫っていた。なんとか体との間に大剣を割り込ませるが、その勢いを殺すには至らない。
真下に向かって大きく吹っ飛ばされてしまう。
天魔の姿が上空に向けて小さくなっていく。凄まじい勢いで落下していた。