(ーーまずい……!)
人が落下から離脱できる距離には限界がある。大地が“羽根のない生き物”を引き寄せる力は、落下距離が長く、そして大地に近づくほど大きくなる。限界を超えた落下速度にあるときに陣を張ると、ヒトは陣に叩きつけられてしまうのだ。
そういう場合、通常は天狼が天駆の体に負担をかけぬよう空中で拾うのだが、エンナの相棒は狼獣であるアイオンだ。アイオンの落下限界はヒトと比べればかなり優秀であるが、エンナの現状はその限界すら超えている。そもそも今はアイオンとも距離があり、アイオンの助けも間に合わない。
天魔がこちらに向かって滑空してくるのが見えた。凄まじい勢いだった。
その背後で、アイオンが陣から飛び降りて天魔の後を追っている。このまま放っておけば、アイオンは自らの落下限界を超えてでもエンナを助けようとするだろう。そうさせてはいけなかった。
エンナはアイオンの落下する軌道に向けて掌を差し出した。陣を張った。
突如現れたアースブルーの陣に、それでも見事反応したアイオンが着地する。そして悲痛なまでに吼えた。助けを拒んだエンナと、自らの力不足を糾弾するための咆哮だった。
(悪いなアイオン……)
心の中で詫びながらも視線を天魔に戻す。次は自身を守らなければならない。天魔の姿はみるみる大きくなってきている。あの爪と牙にエンナが引き裂かれるのも時間の問題だった。
防御の陣を張ることを考えたが、すぐさまその思いつきを捨て去った。この高度で、強固かつ巨大な陣を瞬時に張るのはさすがのエンナにも難しいことだった。
思考を巡らせ、とっさに二つの方法が浮かんだ。
一つは落下の衝撃を殺せる弾力を持った陣をつくることだ。しかし、ここまで限界を超えていてはそれも難しい。上手くいったとしても全身の骨が折れることだろう。
それではどのみち天魔に殺される。
だから二つ目の方法を選んだ。
左手の小指につけた指輪に魔力を込める。エンナの背後、つまり落下していく軌道に陣の層を展開した。何十、あるいは何百もの陣が重なり光の塔を形成していた。
その頂上である一枚目の陣に背中が触れた。すると陣はもろくも破砕してしまう。二枚目、三枚目と次々に陣が砕けていく。
もろい陣をいくつも使い、少しずつ落下の勢いを殺す算段だった。
破砕したアースブルーの粒子が光の円筒を成し、その中をエンナは落ちていく。それは幻想的な景色でこそあったが、当然ながら楽しむ余裕はなかった。
「間に合わないか……?」
重なる陣の破砕音に包まれながら呟いた。
徐々に落下の勢いは衰えているものの、まだまだエンナの落下限界を超えている。そして確実に天魔が近づいていた。
ついに光の粒子をなぎ払って天魔が迫ってくる。
もはやどうすることもできない。エンナは死すら覚悟して、それでも前を見据えた。自らの力をおごったがゆえに招いた事態だ。言い訳はない。ともするとここで終わることに安堵の念すら覚えていた。
それほどエンナにとって、この世界を生きることは困難なことだった。しかし同時に、逃げることはしたくないとも思って生きてきた。
「でもまあ、これなら仕方ないか……」
自分は充分に生きようとした。これはどうしようもないことなのだ。言い訳じみた思考が生まれたことに情けなくなる。
天魔の爪が振るわれている。防ぐ気にはならなかった。
脳裏に姉の顔が浮かんだ。自分が死んだら姉は悲しんでくれるだろうか。考えるまでもない。間違いなく涙してくれるはずだった。
アイオンにも悪いことをしてしまったと思う。ずっと一緒だったから、あいつは自分なしでも生きていけるだろうかと心配になる。
しきりに自分を心配し、気にかけてくれた師であるウォルスは怒るだろうか。あの厳格な人が泣く姿は想像できなかったが、それでも怒り悲しみ、そして一緒に戦場にいた自分を責めてしまうことだろう。
心がずきりと痛んだ。まだ死んではならないと思った。なのに、生きることに執着することができない。
(ーーなんだ、やっぱり俺は人として、そして生き物として欠陥だらけなんだ)
自嘲した。眼前に迫った鋭い爪を、なおも見つめた。
すべてが間延びした世界で、
「なーにやってんだよ、おまえ」
ふいに、声が聞こえた。
エンナの脇を何かが通り過ぎた。人影だった。
天魔の爪がエンナに届くよりほんのわずかに早く、あろうことかその人影は天魔を殴りつけた。その巨体がいとも容易く吹っ飛んだ。
目を疑った。驚きつつも、天魔を素手で殴るという暴挙を成した人を見た。なおも落下を続けるエンナとは距離がみるみる離れていく。どうしてか。なんとその人は浮いていた。陣を張ることもなく、泰然と大空に在った。
遠目にも空に映えるリリーホワイトの髪、そしてどこの地のものか知れない民族衣装をまとった少年だった。少年がわずかにこちらを見遣り、口の端を吊り上げたのが見えた。その意地の悪そうな笑みにエンナは少しむっとして睨み返した。自身の弱い部分を見事に見透かされた気がしていた。
自分でも判らぬ矜持じみたものを少年に対して抱くエンナだったが、意想外の衝撃を感じて、その意識は少年から遠ざけられることになる。
落下を続ける中、空中にあって何かにぶつかった。
「きゃっ……!」
耳元で可愛らしい悲鳴が上がった。ぶつかったことで軌道がずれ、エンナは彼女と向かい合った。
エンナと並ぶように一人の少女が共に落ちていた。
自然と目が合った。むしろ惹きつけられたと言っていい。
空の蒼を写したような瞳だった。どこまでも深く、そしてすべてを包む優しさを嫌味なく悟らせる光を湛えていた。
「つかまってください!」
鈴の鳴るように澄んだ、落下の風切音のなかにあっても心地よく耳元に届く声だった。
うなじの後ろで緩くひとつに結った長い髪はその瞳よりも淡い大空の色で、風にはためいて空に溶け込んでいる。先ほどの少年と同じ型の民族衣装を身にまとい、それが少女をある種幻想めいた存在にすら感ぜさせていた。
「何してるんです!? はやく!」
少女に目を奪われていたエンナに、緊迫しながらも真摯な響きを込めた声がかけられる。
自分だけを写す空の瞳。差し出された掌。標にも似た声。少女のすべてがエンナの心を捕えて離さなかった。
そこに理屈はない。エンナは無意識のうちに少女に向かって手を伸ばしている。
手と手がしっかりと繋がれた。少女がさも嬉しげに微笑んだ。エンナはどんな顔をすればいいか判らなかった。