【評価シートオール3】オーバーラップ文庫大賞一次落選作を公開します

次の瞬間、にわかには信じられないことが起こった。

並行して落下を続けていた少女の身体が僅かに上空へと引かれている。少女の手を介して、エンナの腕にも心地よい負荷が生まれた。

果たして少女はエンナの落下限界を殺して空に浮き、それにつかまる形でエンナも大空にいた。足元に陣が無く、アイオンの背にいるわけでもないのに宙吊りにされたこの状況は、味わったことの無い高揚感と共に、その不安定さからか恐怖も生まれた。下を見ると、雲海と空とが遥かに広がっている。

呑み込まれてしまいそうだった。

知らず知らずのうちに少女を掴む手を握りしめていたのかもしれない。それに応えるように少女も握る手を強めて返した。

その感触に再び少女を見上げた。また、目が合った。心臓がひとつ、大きく脈打った。

「あんたは……」

ただただ呆然とするしかないエンナは言葉を続けられない。

「もう大丈夫ですよ。ひとまず足元に陣を張ってください。えーと……何さん、ですか?」

「……エンナ・ウェルノス、だ」

言われた通りに陣を張ってそこに立つ。それを見届けた少女は柔らかにエンナの手を放した。離れていった温かな感触を、エンナは何だか惜しく感じている。

「エンナさんですか。“羽根のある者”。いい名前ですね」

エンナと視線を合わせるように降りてきた少女が言う。陣に立つエンナと、空に浮遊する少女とが真に邂逅した瞬間だった。

“エンナ“とは”幻想の羽根“を意味する言葉だ。それを”羽根のある者“と呼んでくれたことが無性に嬉しかった。自分の名前の由縁はいかにも皮肉の利いたもののように思われていたのだが、この少女が口にすると違った響きに聞こえるから不思議だった。それ程の無邪気さと寛容さが少女にはあった。

「エンナでいい。あんたは?」

気恥ずかしさからか少女から目をそらしてながら尋ねた。

「はい。わたしはイーファと言います。よろしくお願いしますね、エンナ」

そう言ってイーファは手を差し出す。

つい先ほど離れてしまった手を、今度は逡巡することなく取った。柔く繋いだ掌の意味するところは、先ほどとは違うものだ。嬉しさの微熱が腹の内からじんわりと広がっていることにエンナ自身戸惑っていた。

そのとき、エンナとイーファの真横に新たな陣が築かれた。エンナの立つものより一回り大きなアースブルーの輝き。そこに影が差し、アイオンが地響き立てて豪快に着地した。イーファが驚いたように目を瞠っている。

「アイオン!」

相棒の無事に安堵したエンナが呼びかけるが、アイオンはエンナを見ていない。イーファを睨むように見据え、低く唸りを上げて威嚇している。

「アイオン……?」

「あの、エンナ? この子は?」

怯えたイーファがエンナの背に隠れ、その肩越しに顔を覗かせてアイオンを窺ったが、今度こそ激しく吼えて威嚇するアイオンに怯え、小さな悲鳴と共にまた背の裏に隠れてしまった。

「アイオンどうした? この人は俺を助けてくれたんだ」

人懐こいアイオンがここまで誰かを警戒するのは珍しいことだ。戦闘の後で、気が立っているのかも知れなかった。

首元を撫でてやりながら宥めると、しばらくは興奮していたものの徐々に落ち着き、剣呑な光を湛えていたリーフグリーンの瞳がいつもの優しさを取り戻す。

「イーファ、もう大丈夫だ。こいつは俺の相棒で、アイオンだ。気が立っていたようだが、いつもは優しいやつだから」

エンナに促されて、多少怯えながらもイーファがアイオンに近付く。陣を張ることなく空中を浮遊して移動するさまは、やはり見ていて不思議な感じがした。

おそるおそる伸ばされてくる華奢な白い掌をアイオンは見据え、それからゆっくりとイーファを見た。イーファが伸ばした手をびくりと止めた。

空色とリーフグリーンの瞳が交錯して見つめ合った。そのまましばらく互いに動かずいたが、数瞬の後、張りつめていた空気が弛緩したのが傍目にも分かった。

緊張の糸を解いたイーファがふにゃっと破顔し、なんと両手を広げてアイオンの首を抱いた。エンナは一瞬どきりとしたが、

「よろしくね、アイオン」

抱きつかれたアイオンも、まんざらでもない様子で甘えるように喉を鳴らしている。先ほどの警戒ぶりが嘘のようだった。

今や姉妹のように仲睦まじいイーファとアイオンの様子に微笑ましい気持ちになっていると、また新たに声が降ってきた。

「いやぁ、あのヤロウ逃げやがったよ。他の天魔もいっしょにいなくなっちまうし、拍子抜けだな」

先ほどの少年だった。イーファと同様に、やはりその身は宙に浮いている。

「お? イーファ、そいつ狼獣か? 空にいるのは珍しいな。……しかもそいつ、魔導具使ってないか?」

少年がアイオンの頭を乱雑に撫でる。意外なことにアイオンは嫌がらなかった。

「アイオンっていうんです。エンナの相棒だそうですよ」

「エンナ?」

ああお前か、とでも言うように少年がエンナを一瞥する。そして意地の悪そうに笑んでみせた。

まただ。イーファと同じ色の瞳くせに、明らかに受ける印象の異なる空色だった。この少年の視線はエンナの心をざわつかせる。なんとも落ち着かない気持ちになるのだ。

「エンナ・ウェルノスだ。さっきは助かった」

憮然とした気分ながら感情を込めぬよう言った。助けられたことに真に感謝しながらも、それを素直に受け入れきれないエンナは、あえて上っ面だけの感謝に見えるような態度をとっている。

「いやいや、あれくらいなんてことねぇよ。気にすんなエンナ。俺はアンガスだ。仲良くいこうぜ」

エンナの心の内を見透かすようにへらへらとしながら、アンガスがエンナの肩を二度三度と叩く。その挙動ひとつひとつがエンナの癪に障った。

「あぁよろしく、アンガス」

「おいおい、命の恩人に向かって呼び捨てか?」

「気にするなと言ったのはおまえだろう?」

「はは、違いねぇ。しかしエンナ、おまえひとりか? 他の天駆たちは?」

「あいにくと協調性が無くてね」

「ほんとにひとりかよ。若いねぇ。しかしそれは無茶ってもんだ」

「ほっとけ」

仲が良いのか悪いのか判らない会話を続ける二人をイーファが心配げに見守っていた。

「おまえ、面白れえなぁ」

アンガスが穏やかに言った。今度はからかう様子はなく、まっすぐにエンナを見ている。だからエンナはそれを受け止める。目をそらしてはいけない気になっていた。

「なあエンナ、頼みがあるんだ」

アンガスは笑った。先ほどとは違う、寂しさを含んだ力ない笑みだった。イーファが胸の前で苦しげに手を握りしめたのが見えた。

「頼む。ーー俺を殺してくれ」

唐突に尽きる一言だった。

その意味を計りかねた。そしてエンナはその言葉への返答を持ち合わせていない。ただ戸惑うことしかできなかった。

大空は、どこまでも空虚に広がっている。

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