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キウォール城の一室にいた。
エンナにとっては慣れ親しんだ部屋だ。中央にテーブルがあり、それを囲むように椅子が置かれ、そこにアンガスとイーファとともに腰掛けている。テーブルに椅子に暖炉に、その他の調度品などを見ても素朴なものが多い。派手さこそないものの、ひと目に逸品とわかる照明が柔らかに室内を照らしていた。広さもそれほどなく、一国の城内にいるとはにわかには信じられない。
ただ、それ故に落ち着いた雰囲気でもあった。ここはフィオナが正規の来客とは別に、親しいものだけを迎える客間だった。
「みんな、おまたせ」
片手に焼き菓子の載った皿、もう一方の手にティーポットを持ったフィオナが弾んだ声とともに入室してくる。
扉を開けたのは皿やカップを乗せたトレーを運ぶウォルスだ。こちらは何とも言えない渋い顔をしている。国の精鋭である彼が付き人のようなことをさせられているのは滑稽に映るが、これはいつものことだった。
「姉さん、また使用人たちの仕事を奪ったな。ほどほどにしてやってくれよ」
一国の主を働かせてしまっていいものかとうろたえる使用人たちの様子が容易に想像できて気の毒になった。当の本人は何処吹く風で、鼻歌まじりに皆のお茶を注いでいる。ウォルスも不本意ながらも慣れた手際でそれを手伝っている。
「いつも頼り切ってしまっているのだし、たまにはいいじゃない。それに、この部屋に迎えるのは親しい方たちばかりだから、自分の手でもてなしたいのよね」
反省の色の見えないフィオナにエンナは嘆息した。どうにもこの姉は自分が女王であるという自覚が足りていない気がする。
「ではあらためて、二人ともエンナを助けてくれてありがとう」
席に着いたフィオナがアンガスとイーファに頭を下げる。
「助けに行ってやれなくて悪かったな、エンナ」
フィオナの脇に立つウォルスが言った。
「いえ、先生には隊を守る役目がありますから当然のことです。勝手な行動をとった俺が悪かったです」
自分のために頭を下げるフィオナと、悪くもないのに詫びるウォルスにエンナは動揺してしまった。
「悪いとわかってても、次もまた同じことするだろお前」
横から口を挟むのはアンガスだ。淡々とした口調がそれが事実であるという妙な説得力を孕んでいた。
「……善処するさ」
「善処ねぇー。死にたがりがよく言うぜ」
天魔との戦いで、最後の最後にエンナが諦めたことを言っているのだった。しかし、あれは本当にどうしようもなかっただけだ。
しかし、これで終われると少しだけ安堵したのもまた事実だった。
「別に死にたいわけじゃない。それに、死にたがりはおまえの方だろう」
“俺を殺してくれ”。
アンガスにそう言われたことを思い出す。
「アンガス、あれはどういう意味だ?」
「そのままの意味さ。おまえが俺を殺す。それだけのことだよ」
それが当たり前のことだと思わされてしまいそうになるほど、アンガスはあっけらかんと言う。
聞いたイーファがひどく心痛な面持ちでいることに気づいているのかいないのか、アンガスは焼き菓子に手を伸ばして口に放り込む。
「美味いですね、これ」
「ありがとう、お菓子作りは私の趣味なの。−−それよりもアンガスくん、今の話をもう少し詳しく聞かせてくれないかしら? どうしてエンナがあなたを死なせなければならないの?」
努めて冷静な風にフィオナが訪ねた。一同がアンガスの返答を待った。
「俺とイーファはおまえたちが言うところの“羽根のある生き物”だ」
二つ目の菓子をつまみながらアンガスが淡々と言った。
この世の生物は大きく二つに分類される。すなわち“羽根のある生き物”と“羽根のない生き物”の二種類だ。人や、狼獣であるアイオンは“羽根のない生き物”、そして天駆たちの相棒である天狼や天駆の宿敵である天魔は“羽根のある生き物”になる。
人型の“羽根のある生き物”など聞いたことがなかったが、実際に空を飛ぶ二人を目にしているエンナはなんとか納得することができた。
「そして“羽根のある生き物”には“正義”と“悪”があるのは知っているな?」
ここまで言われればエンナにも察しがついた。
“羽根のある生き物”はその本質から“正義”と“悪”に分類される。簡単に言ってしまえば、天狼のように友好的なものが“正義”、天魔のように凶暴な性質を有するものが“悪”とされる。
アンガスとイーファも“羽根のある生き物”であるならば当然……。
「俺は“悪”で、イーファは“正義”だ」
淡々と言ったものだった。その平坦さから感情を窺うことはできない。
「自分が“悪”だから殺せと?」
「ああ」
エンナの探るような問いにアンガスは即答する。
「どうしてだ? 会って間もない俺が言うのもなんだが、おまえは少し意地の悪いだけのヒトにしか見えないぞ」
「言ってくれるねぇ。まあ確かに、俺もイーファもヒトの形を取っているせいか、天魔や天狼のように“悪”やら“正義”やらがあからさまに表に出ることは今のところないな」
「だったらどうして……」
「これまでがそうだったからって、この先も変わらないとは限らないだろ? 何かの拍子に“悪”の本質が暴走しちまうかもしれねぇ。俺は天魔のように見境なく暴れるようなことはしたくないだけさ」
アンガスの言うことはわからないでもない。ヒト型の“羽根のある生き物”など前例がないのだ。アンガスが危険に陥ったときや他の悪意に触れたとき、はたまた絶望したときにどうなるかは予想がつかない。
判らないからこそ先手を打とうということだった。
「俺は強いぜ、エンナ? 俺が暴走したらここの天駆を総動員しても止められないかもしれない」
他人事のようにくつくつ笑うアンガスの気が知れなかった。自分は何も悪くないにも関わらず死の選択を迫られているというのに、どうしてこの男は平気でいられるのだろうか。
(それともこいつは……)
あるいはアンガスも悩み抜いた末に今、笑っているのだろうか? そう思い至ったとき、アンガスのことをもっと知りたいとエンナは思っていた。
熟考するように耳を傾けていたウォルスがここでおもむろに口を開く。
「なぜ君を殺すのがエンナでなければならない? それに、……こういう言い方はしたくないが、そもそも君自身がけりをつければ良いのではないか?」
直接的ではないにしろ、自殺しろという師の言葉にエンナは思わず息を呑んだ。当然の意見ではあったが、やはり気分のいいものではない。
イーファが不安げに瞳を揺らし、フィオナが咎めるように視線を送るが、ウォルスはあえてそれを無視している。汚れ役も自らの仕事とばかりにアンガスになおも問う。
「自身の決断を他人に委ねるのか? 君の問題にエンナを巻き込まないでもらいたい」
「はは、まあ筋は通っちゃいるね。でもね、俺は自殺できないのさ」
「どうしてだ?」
「死にたくないから」
「先程と言っていることが違うようだが?」
「本音では死にたくないってことだよ。だから、自殺なんかしようとしたら、その理不尽さに耐えきれずに暴走するなんてこともありえるかもしれない」
生きていたい。でもそれが許されない境遇に、果たしてヒトは耐えられるのだろうか? 確かにこの状況でアンガスに自殺させるのは良策ではないと思われた。
「だからさ、殺されてやると言っても俺は必死に抵抗するぜ? 要するに、エンナには本気で俺と戦ってもらい、その上で俺を殺してもらう」
それを聞いたウォルスがひとつ頷く。
「なるほど。君が自殺できない理由はわかった。ならば、俺が君と戦おう。エンナは確かに強いが、まだ俺には及ばない」
「いや、残念ながら俺はあんたに殺されてやるつもりはないよ、ウォルスさん」
ウォルスの有無を許さぬ言葉をあっさりと受け流すと、アンガスはエンナを見た。
「俺はおまえ以外のやつに殺される気はない」
「どうして俺なんだ?」
なぜアンガスがここまで自分にこだわるのかエンナにはわからなかった。
「おまえが気に入ったからさ。……って、んな露骨に嫌そうな顔すんなよな」
「俺はおまえが気に入らないよ、アンガス」
「そうだろうな。ま、その方が殺すとき迷わずにすむだろう?」
そう言って笑うアンガスを前にして、エンナはどうして目の前の男を好きになれないかなんとなくわかった気がした。羨望と同族嫌悪。一見して反する感情が胸中で渦巻いていて妙な心地だった。
「どうしたもんかな……」
誰に向けるでもなく小さくつぶやいていた。