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夜風が頬を撫でて通り過ぎていく。
キウォール城で一番高い位置にある見張り塔、その屋根の上に腰掛けて、エンナはぼんやりと城下町を眺めていた。
家々から明かりの光が漏れ、それに負けぬ月明かりが町全体を柔らかに照らしていた。エンナにとっては見慣れた、そして大切な景色だった。独りよがりな戦いに身を投じてしまいがちなエンナに、天駆の本懐であるべき、人々を守るという使命を思い出させてくれる景色だ。視界にひろがる町、そこに暮らす人々、延いてはキウォールを守るためにこそこの身があると思えることを寄る辺にしていた。
そしてそのためにアンガスをどうするべきか迷っていた。
アンガスの言っていることは一見筋が通っているように思われる。だが、あれはすべて空想にすぎない。起こるかも分からぬ災厄の芽を摘むためにヒトを殺すことなど許されるのだろうか?
そもそも自分に誰かを殺すことなどできるのかが疑問だった。
いくら考えても答えなど出るはずもない。
いつのまにか思考は停止してしまっていたエンナだったが、
「やっと見つけました!」
下から聞こえてきた可愛らしい声に現実に引き戻された。
見下ろすと、見張り塔の窓から身を乗り出したイーファがその身を捻るようにしてこちらを見上げていた。目が合うと嬉しげに笑う。
「そっちに行ってもいいですか?」
「かまわないが、気をつけろよ……って、イーファ!?」
おもむろに窓の縁に手を掛けると、なんとも身軽にそこに飛び乗ったイーファが、あろうことかそのまま屋根の上に向かって跳躍した。エンナは度肝を抜かれた思いだった。そんなことをして、足でも滑らしたらどうするのだ。危なっかしいことこの上なかった。
屋根の上に片足を掛けたイーファの手をエンナは取り、慌てて引き寄せた。そのまま自分の方に抱き寄せたが、勢いを殺せず尻餅をついてしまう。
それでもなんとかその場に座り込むことに成功して胸をなで下ろす。
「エンナ?」
腕の中でイーファが心底不思議そうにエンナを見つめていた。きょとんとした表情で、大空の瞳を向けてくるイーファを前にして、エンナはその表情の意味するところを図りかねて小首をかしげたが、次の瞬間には自らの失態に気付いてしまった。
「……そういえば飛べるんだったな、あんた」
そっぽを向いて平静を装って言ったが、顔が赤くなっていることが自分でもわかった。
「はい。でも、ありがとうございます。嬉しいです」
くすくすと笑いながら、どうにも近い場所でイーファが礼を口にする。兄妹でこうも違うかと思うくらい、イーファの笑い方は無邪気だった。
「エンナ、わたし、もう大丈夫です」
「ああ、すまない」
「ふふ、なんで謝るんですか?」
エンナの腕の中からもぞもぞと抜け出したイーファが、
「探しましたよ、エンナ」
向かい合って言った。顔が近かった。
「俺になにか用か? というか、よくここがわかったな」
「フィオナさんに訊きました。エンナはよくここにいると」
「そうか」
「はい」
ごく自然に沈黙が降りた。それは気まずいものではなく、むしろエンナには間近にある少女の存在が心地よく感じられた。
なんとなしに隣に腰掛けたイーファを見やると、彼女は先程のエンナと同じように町並みを眺めている。
月の仄かな光が照らすその横顔に見とれた。長いまつげの下にある、大空のような色と寛容さを湛える瞳、すっと通った鼻梁とほんのりと赤らんだ頬。出会ったときはひとつに結っていた、瞳と同色の髪を今は下ろしていて、風に遊ばれないように白く華奢な手で押さえている。
(正義の生き物、か)
それがイーファを形容するに、いかにもふさわしく思われていた。
ただ、だからといってアンガスを悪の生き物と言うのは、的を得ているようにも外しているようにも思えた。
「イーファ」
「ん? なんです、エンナ?」
イーファがこちらを見た、ただそれだけのことに心が弾んだ気がした。
「なんだじゃないだろ。用があってきたんだろ?」
「んー、そうなんですけど、そんなに慌てないでくださいよ。せっかくこんなにも気持ちのいい夜なんですから。エンナはもう少し心にゆとりを持つべきだと思いますよ?」
「生憎と余裕のない性分でね」
「だめですねぇ。そんなんじゃ女の子にもてませんよ? そうだ、せっかくですし、わたしのこと口説いてみてくださいよ」
「……口説いてどうこうなる可能性はあるのか?」
「さあどうでしょう? 試してみては?」
楽しげに意地悪く笑むイーファの姿はすこしだけアンガスと重なって、こういうところはやはりアンガスの妹かと思った。
「アンガスのことを訊きに来たのか?」
「あら残念、口説いてくれないんです?」
「俺は真面目に話している」
戯れはこれまでとばかりに告げると、イーファが一転して真剣な表情になる。
「……そうですね。エンナはアンガスの話を聞いて、どう思いましたか?」
声が僅かに震えていた。すがるような視線を向けられて、エンナはイーファの不安を取り除いてやれる言葉を探したが、浮かぶのは虚偽ばかりで、それを口にすることはどうしてもできなかった。
「アンガスがこの国の驚異となったなら、俺は迷いなくあいつを止める。ただ、今は無害なあいつを殺すのはどうかとも思う」
だから素直に言った。それこそが今は必要なことと信じた。
イーファは困ったように笑った。
「エンナは優しいですね」
「誰かを傷つけるのが怖いだけだよ」
「そう思えることが大切だとわたしは思います」
イーファがひとつ深呼吸をした。そしてまっすぐにエンナを見つめる。
「エンナ、お願いがあります」
既視感があった。自分を殺してくれと頼んだときのアンガスとイーファの姿が重なる。ただ、諦め混じりだったアンガスとは違って、今のイーファの瞳には強い意志が見て取れた。
「わたしと一緒にアンガスを助けてください」
一息にそう言った。
エンナは値踏みするような視線をイーファに向けたが、イーファは挑むように見つめ返してくる。引く気はないようだったが、その強気の裏側で不安に心が押しつぶされそうになっていることをエンナは敏感に感じ取っている。
「その願いに今すぐ応えてやることは、悪いができない。ただ、俺もそうできたらいいと思うよ」
「わかっています。エンナにも守るべきものがあることも、自分が無理なお願いをしていることも。……それでも、わたしはあなたに頼るしかないのです」
「アンガスもそうだが、どうしてあんたらは俺に難題をふっかけるかな。俺より優秀なやつならいくらでもいるだろうに」
思わず本音をこぼしたエンナだが、
「わたしも、そしておそらくアンガスも、ひと目であなたを気に入りました。あなた以上に頼れる方はいませんよ」
根拠もなく言い切られてしまう。悪い気はしないが、釈然とはしない。
「……具体的にはどうするつもりなんだ? ただ単にアンガスを放置しておくことはできないぞ。あんたがどう考えているのか、聞くだけ聞いてやるよ」
イーファにもいろいろと思うところがあるようだ。無策でエンナにすがるようなことはしていないだろう。