だがイーファが言い放ったのはエンナの予想し得ないものだった。
「エンナはアンガスと戦ってください」
「はぁ?」
「ですから、アンガスと戦って、そして勝って下さい。それも完膚なきまでに」
「いや、言っている意味がわからんぞ。あんたはアンガスを助けたいんだろう?」
「もちろん殺してはだめですよ。戦う目的は、アンガスに自分より強い者がいるとわからせることです」
“俺は強いぜ、エンナ”。そう言ったアンガスの姿が浮かんだ。あれは自分の力に絶対の自信を持つ者の揺るぎなさだった。自分をどうにかできるとしたら、それは自分の悪の心だけだとアンガスは心底思っているのだ。
「……万が一暴走しても、それを止められる者がいることをあいつに分からせると?」
「話が早くて助かります。わたしたちで、あのお高くとまった鼻っ柱をへし折ってやりましょうよ」
ぐっと握り拳をつくるイーファは本気のようだ。
「そうは言ってもなぁ。そもそも俺はアンガスがどの程度の強さなのかすら知らないぞ。まあ、あの天魔の巨体を殴り飛ばすくらいだから並大抵でないのは分かるが」
「少なくとも、わたしひとりでは足下にも及びませんね」
「いや、あんたの力量も知らないから」
「試してみますか?」
待ってましたとばかりにイーファは言った。
「試すったってな」
「わたしと手合わせしましょう。わたしもあなたの力を知っておきたいですしね」
身軽に立ち上がったイーファがエンナを見下ろしている。美しい髪と、彼女のまとう民族衣装が風に遊ばれる。
エンナは立ち上がらない。イーファに拳を向ける気にはならなかった。
「遠慮しとくよ。そんなことに意味はない」
目を合わせず言った。
「えー? そんなこと言わないでくださいよ」
拗ねたように唇を尖らせてイーファが声をあげる。そして、なにか思いついたようにしゃがみ込んで、座ったままのエンナと目線を合わせた。
月明かりの下でもわかるほど綺麗な空色の瞳でのぞき込まれてエンナは思わず顔を引いた。出会ったばかりではあるが、エンナはイーファのこの目に弱いようだった。すべてを抱擁するかのような寛容さに安心を覚えると同時に、どうにもたじろいでしまう。
無意識なのか、それともわかってやっているのかイーファもやたらと近いところでエンナを見てくるものだからたまったものじゃなかった。
「戦う理由が欲しいというのなら、賭けをしましょう」
「賭け?」
「わたしが勝ったら、その呼応石をください」
白く細い指が、エンナの胸元に提げられた呼応石を指した。寂しく二つ並んだうちの一つを。
エンナはイーファの意図を図りかねた。呼応石は仲間同士が手にして初めて真価を発揮する魔導具だ。イーファはどういうつもりでそれを欲するのだろうか。
「こいつはただの装飾品じゃないぞ? まあ、あんたにはよく似合うだろうが……」
呼応石を身につけたイーファを想像して、本気でそう思った。イーファの髪や瞳の色は、この呼応石の光にさぞ映えるだろう。
「呼応石のことくらい知ってますよ。貴重な魔導具をただの装飾品なんかにしませんよ」
エンナは眉根を寄せる。現状、呼応石がただのお飾りになってしまっているエンナには耳の痛い言葉だった。
「ならどうしたいんだ? 悪いが売り払ってもらっては困るぞ? これは姉さんが……」
「……売るわけないでしょう。エンナはどんな目でわたしを見てるんですか……。わたしをあなたの隣に置いてくださいと言っているんですよ! 普通わかるでしょう! わざとやってます!?」
語気を荒げてイーファがまくし立てる。
呼応石は仲間の証だ。その意味を知った上でイーファがそれを欲しがってくれるのは素直に嬉しかった。
だが、
「打算的な思惑の上でこいつを誰かに渡したくない」
イーファがエンナと仲間でいたいと思うのはアンガスの存在があるからだ。エンナの助けが今必要だからだ。
そういう利害の上で成り立つ関係が真に正しいのかエンナには判らない。我ながら面倒な性格だとは思うが、どうしようもないことだった。
「打算、ですか。そう取られても仕方ありませんね……」
途端にイーファが悲しそうに顔を伏せたものだからエンナは慌てた。
「いや、あんたが悪いわけでは決してなくてだな……」
悪いのは悶々と悩むばかりで前に進むことのできない自分自身だ。それをイーファにぶつける形になっていることに自己嫌悪した。
「俺はただ……」
そのときイーファが伏せていた顔を突然あげて、同時にエンナの手を両手で包み込むように取った。
「それでもわたしには、あなたしかいません。お願いしますエンナ。助けてください」
まっすぐに自分だけを見る瞳。つないだ手で交わる体温。震えた、すがるような声。
拒むことはできないと思った。単純だなと思いながらため息を吐く。
「イーファ、俺は俺にできることしかできない。……それでも、できる限りのことはすると約束するよ」
「ありがとうございます!」
はじけるような笑顔がイーファの面に浮かんだ。エンナの手を包む両の掌に力がこもって、そのまま引き寄せられた。
「では、早速手合わせしましょうか」
「やっぱり仕合はするんだな」
「当然です。エンナはアンガスの強さを見くびっていますから。わたしがその一端を見せて差し上げます」
「おー、怖い怖い。さすがは正義の生き物だ」
「言っときますけど、わたしは本気ですからね!」
軽口を言うとじゃれるようにイーファがそれに応えてくれる。それだけのことが無性に嬉しかった。ほんとうにイーファと仲間になれたらいいなと思えた。だから、少しだけ歩み寄ってみる気になった。
「そうだな、もしあんたが俺に勝てたら、この呼応石を預けてもいい」
するりと言えたことにエンナ自身が驚いていた。
イーファも驚いたように目を瞠って、そして不適に笑んだ。
「預ける、というのが少し引っかかりますが、あなたらしいですね。俄然やる気が出てきました。後で後悔しないでくださいよ?」
「まあ、俺もそう簡単に負けやしないよ」
いくらイーファが強いと言っても、エンナもかなりの手練れだし、そのことを自負してもいた。ここまでくると、イーファと戦うことへの引け目など何処かへ飛んでいってしまっている。基本的に戦うことが好きなのだ。
「それで、俺が勝った場合はどうするんだ? 賭けなんだろ?」
何かが欲しいわけではなかったが、体裁上、一応訊いてみた。
「うーん、何がいいですか?」
「何でもいいよ」
「それが一番困るんですよね。……なら、エンナが勝ったら、わたしが何でもひとつ言うことを聞きます。そうれでどうです?」
「また安易なことを。アンガスと一緒にこの国を出て行けとか言われたらどうするんだよ」
呆れたように言ってやると、イーファは何でもないことのように笑う。
「エンナは絶対にそんなこと言いませんから。わたし、信じてます」
こうも屈託なく言われるとエンナも返す言葉がない。そしてそんな風に言うイーファを無下にすることもできそうになかった。
「まあ、それでいいよ。仕合はいつやる? 今すぐか?」
「はい。善は急げ、です」
「はいはい。なら城内の訓練室にでも行くか」
エンナが腰を上げると、合わせてイーファも立ち上がる。かと思うと、イーファが屋根の上から勢いよく飛び出した。そのまま浮遊すると、くるりとエンナのほうに振り向く。
「いえ、ここでいいです」
「ここってあんた……」
「実戦は間違いなく空中戦ですからね。それに近い方がいいですよ。あ、もしかして夜目が利きませんか? だったら明日にしても……」
「夜戦うことなんてざらだよ。そんなことは問題ない」
「ならよかったです。では、魔導具を用意してきてください。わたしはここで待ってますから」
「必要ない。陣を張る魔導具はあるからな」
片手をあげて指輪型の魔導具を見せてやるが、イーファは納得できないように首をかしげている。
「武器が必要でしょう? 丸腰で戦うつもりですか?」
「あんただって丸腰だろう」
「それはそうですが……」
なおも渋るイーファだが、エンナに武器を使うつもりはない。体術には自信があるし、そもそも戦うと決めたもののイーファに刃を向ける気になるはずもない。